La Bonne Bagutte





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 ラ・ボーン・バゲット

「ラ・ボーン・バゲット」フランス語で「よいバゲット(フランス・パン)」という意味である。
ここはスコットランドのアバディーン。
そのアバディーンのシティーセンターの一角に、それはそれはよく流行っているカフェがある。そのフレンチ・カフェのお店の名前なのだ。
日本で言う喫茶店と定食屋の中間という感じで、店内はそこそこの広さを有しているがその分テーブルと椅子がそれに負けないくらい設置されている。
フランスでよく見かける所謂ブラッスリー・カフェの雰囲気をかもし出しているが、おフランス式の「ゆったりとした豪華な」という所ではない。

「食べる」ということが第一目的で、ランチ時の十二時から二時頃までは、その店内が満員御礼状態で、その上入り口から長いキューを作っていたりする。
勿論、ランチ時を外せば、のんびりとコーヒーとフランス菓子などで喫茶店と化し、子供連れの奥様連中の溜まり場となったりしている。
その回転率たるもの素晴らしく、この店のランチ時は、おのずとキッチン内は戦場となっている。
そこでヒロコの出番となるのである。

ヒロコはこの「ラボーン・バゲット」のパートのおばちゃんスタッフとなって早くも四ケ月が過ぎたのだった。
日本でも正月前には人々は「いい正月を迎えたい・リッチにいきたい」と財布の紐が緩む季節に備えてエキストラのお金が欲しいものであるのと同様、こちらでもクリスマスは優雅に過ごしたいとくるものだ。
そんななか、クリスマス前になるとどこのレストランもスタッフの増強をはかり、求人広告を出す。
この職に乏しいアバディーン、まして灰色の憂うつな冬。
じぃーっとネガティヴに家の中で冬眠生活しても精神的にも健康的にもよくあるはずがない。
ましてこの財布の紐を年に一度ぐらいは思いっきりゆるめてみたいもんだ。
いつもは節約節約で安い食料品ばっかをあさっている毎日から、やはりクリスマス、新年ぐらいは普段では手も足も出ないマークス&スペンサーなどの高級食料品を思いっきり買いあさってみたいとヒロコはようやく三食昼寝付きの専業主婦から卒業して、重たい腰をよっこらしょっとあげてパートタイム獲得に乗り出したのが十一月だった。
しかし現実はそう甘くはなかった。
目を凝らして新聞広告を見たり、ジョブセンターへ通ってみたが、現実をよく考えてみると、会社務めをするだけの英語力にはまだまだ乏しいし、ましてフルタイムでは、こんな私の性格であるから必ず家庭に支障をきたす。
目指すはパート・タイム・ジョブおばちゃんである。

だが、これといったグッドな仕事などあるはずがない。
せいぜいホテルの清掃婦、レストラン、子守りぐらいなものである。
まぁ、しかしクリスマス、リッチなクリスマス、嫌だったら一ケ月で辞めたらいいんだし、と結構無責任なことを思いながら、大手ホテルの清掃、所謂こちらでは「クリーニング・レディー」と言われる広告に目を落とす。
「八時から一時かぁ。いっちょぉ行ってみるか!徒歩圏内だし」と、気軽にアポイントメントを取りはしながらも、歩きながら「トホホ!これでもいっぱしに大学出てんだぞ!こんなアバディーンまで来て清掃婦かよ!」と、何だかお先が真っ暗闇に包まれ、悔しいやら情けないやらで落ち込んでしまっていた。
英語の履歴書、そして先方が差し出す申込用紙にいろいろ記入し、一通りの説明を受け、 インタビューを受ける。

清掃部長であるおばちゃんを紹介され、各部屋に案内される、だいたい一部屋を二十分で 仕上げるという。
いざ初出勤を待つばかりの待機期間中に電話がかかって来る。
「二枚のレフェレンスが必要なので用意して下さい」とのこと。これは二人の保証人をたてて、「このヒロコ・マクファージンがロクでもない人間ではありませんよ」という証明がいるというのだ。
そのうえ、旦那さんでは駄目ですときた。
ええ?何かい?清掃婦をするのに保証人?
ここでまたガーンとネガティヴになる。まだ恥かしさを感じるお年頃である。
「誰に頼もうか?」で、以前ランドリーを経営していたデズとレコードショップのフレッド君に頼んだ。
二人とも快く「ヒロコはハード・ワーカーでとても誠実な人間だ」などと気前良くサインをしてくれたのだった。
これを持っていくと、今度はジョブセンターに行って、パスポートを見せて、貴方がユナイテドキングダムで働いても良い身分であるという証明がいるという。
生憎その当時、パスポートはグリーン・カードを取得するために、ロンドンのホーム・オフィースへ出張中。このことをジョブセンターのおエライさんにクリス君が説明してくれたのだが、アンフレンドリーな態度のおじさんは「そんなこと出来ねぇー!」ときた。 アバディーンにやってきて、初めてガーンと打ちのめされたような気分だった。
たかがホテルの清掃の仕事を得るために、こんなにややこしい書類が必要などとは全く思ってはいなかった。 ショックと絶望感と孤独感にさいなまれる。

そんなある日、一本の電話がかかってきた。
以前面接申込(先方が用意している履歴書みたいなもの)を出しておいた、ラ・ボーン・バゲットからである。
「ハーイ!少し時間が経っちゃったけど、まだこの店で働くことに興味を持ってる?」打ちひしがれた直後のこと、即座に「ええ!」と答えた。
「じゃぁ、面接に来てもらえるかしら?」で、明るい声の女性からの電話で何か救われたような気持ちとなった。さっそくその午後、面接に赴く。

「ハーイ!私はニッキー、ここのマネージャーよ!」と、若くて細身のいかにも頭のキレそうな美人である。
彼女との会話も弾み「まだあと二、三人申込があるのでインタビューしないといけないんだけど、私はあなたに来てもらいたいと思ってるの」と、ポジティヴな返答をもらった。
「あのう?レフェレンスはいるの?ジョブセンターの証明書はいらないの?」と聞いてみた。
「貴方何か悪いことやった?」と、彼女は大笑いで「ノー・プロブレム!」。
そーか、ここは街場のカフェーなのだ。きっと出入りだって激しいのかもしれない。

そんな後日、再びニッキーから「一二月一日から働けるかしら?」とOKの返事をもらったのだった。同じくその午後、例のホテルからも彼ら独自でホーム・オフィースにコンタクトを取って、私がこの国で働いてもいいという証明をとったというので、是非に働いて欲しいとの電話が入った。
しかしやはり最初の第一印象ってやつが悪かった、何か「ケチ」がついたようなので、ホテルは断り、このラ・ボーン・バゲットの一員となることに決めたのだった。
時給三ポンド四十ペンス、ディッシュウォッシャー兼キッチンスタッフ。これがあたしに与えられた身分であった。ディッシュ・ワッシャー、横文字の仕事であるが日本語に訳せば皿洗いである。
皿洗いに関しては、学生時代、OL時代、フリーター時代に嫌という程経験済みである。
お国こそ変れどもやってることは同じだろうと、別段緊張もしない。
難をあげるなら、スタッフ達との会話ぐらいだろう。
実は私の手の皮は、普通の人より何倍も分厚いみたいだ。まるでツラの皮と同じように。であるからして、業務用の洗剤は市販のものとは違ってかなりきついのにも関わらず未だかつて、カサカサやひび割れ状態を起こさない。全く皿洗いをするために生まれてきたような手を持っている。
女の手というものは、その女がどれだけ苦労をしてきたかが一目で分かるバロメーター的なものである。 すなわちカサカサの荒れた手を見れば、人々は思う。「ああ、この人苦労してるんだ」と。
ところがどすこい、私の手は全く荒れないときている。
しかるに「まぁ、何の苦労もせず、ブクブク大きくなったのね」と、人は思うだろう。
これにはいささか憤慨するが・・・・ 皿洗いにはもってこいこいの黄金の荒れない手が武器である。

十二月一日午前十一時の初出勤。
「ハーイ!」と、ウエイトレスの皆が笑顔で声をかけてくれる。
「ウェルカム・トゥ・ザ・ラ・ボーン・バゲット!」と、ニッキーに伴ってキッチンに案内され、スタッフに一通り、紹介される。どうやらこの店に黄色人種は私一人のようだ。
二十代後半のキューピーさんみたいなぽっちゃり愛敬のあるコック長のマーヴィン君、口数が少なそうだが、優しそうなクリス君、日本へやってきたら若い女の子がキャーキャーと回りを囲みそうなキュートなランドル君、紅一点ラテン系のこの男の子達をサイズで圧倒しているファーティマ。
皆がこぼれんばかりの笑顔で、「ハーイ!」と迎えてくれた。 日本のようにタイムカードなんてものはない。
週ごとの出勤予定表通りの時間に来ればいいだけである。

さて、パート・タイムの始まりである。
エプロンを手渡され、支度をしてマーヴィンからいろいろ説明をうける。
マーヴィンの英語は聞き取りやすい。聞いてみれば彼の出身はインヴァネスという。

「なるほど!」どうりで聞き取りやすいはずだ。

十二月、もうこの国ではクリスマスの始まりである。

人々はクリスマスのプレゼントや買い物で、街は大賑わい。

もっとも、このカフェーのロケーションもアバディーンで一番人が集まる一角にあるので、お喋りもそこそこ、まずはそんな暇などない。

すぐさま洗う洗う。

どんどん下がって来るお皿にグラス、フォークにナイフ、コーヒーカップetc・・・

ホールの広さや座席数に反比例して、キッチンはその広さの割に狭い。

その上、シンクの方は野菜のみ洗う簡単なシンクを除いて、シンクは一つしかない。

調理後の鍋、フライパン、プラスティック容器など一切合切この一つのシンクにやってくる。

しかもだ、日本だと洗剤を入れて洗うシンクと水を張ってすすぎ専用のシンクとこの規模のカフェーだったら通常二つは備え付けてあるものだが、ここは一つ。

果たしてどーやって泡をすすぐのだろうか?と疑問が沸き上がる。マーヴィンのやり方を見せてもらう。

何と、洗剤を入れてバリバリ泡立ったシンクで油のこびりついたフライパンを洗うが、それを横の水切りに置くだけ。

すすぎなどしないのである。そのままタオルで拭き取っておしまいだ。

少々粘りが残っていようが、泡が残っていようがお構いなしである。

日本ではこうはいかない。すすぎには重点が置かれている。

どうも感覚が狂うのだが、洗う側としては、これでいいのならこちらの方が簡単で断然いい。

十二時を過ぎた。

可愛いウエイトレスは、その顔とうらはらに、これでもか!これでもか!という位にお皿やグラスを下げてくる。

ヒロコも髪を振り乱して頑張るのだが、何せ一年半以上もぐうたら主婦をしていたのだ。

体が思うようには動かない。

たちまちみるみるうちに皿は、うず高く遠慮なしに積まれ、グラスは棚から溢れんばかり。

眼が回る。しかもノンストップである。

がむしゃらに洗う、洗う。我を忘れて洗う、洗う。

キッチン内には、オーナー、給与支給元つまり雇い主のアンが、猛烈にシャウトしまくる。

ニッキーも叫ぶ、マーヴィンも吠える。

キッチン内は戦場となっている。あっという間に二時半が過ぎる。

この時間になると、どうやら店は少々落ち着きをみせる。

そこでスタッフはランチ休憩を順番でとるようになっている。

「ヒロコ、あなたの番よ!」で、はっと我に返った。

二十分間の休憩。スープとバゲット・サンドイッチを作ってもらって、店内の席に腰を落とす。

疲れがどっと出て来る。

休憩後、まだまだうず高く溜まっている食器やフライパン。再び洗う、洗う!

四時を過ぎてもまだ片づかない。

すると、クリス君がやってきて、優しく「ヒロコ、もういいんだよ。君は四時までなんだろ?時間がきたら、どんなに忙しくても帰ったらいいんだよ」と、言ってくれた。

日本ではなかなかそう簡単に「はい!お先にぃー!」と、心情的には帰れないものであるが、ここは割り切って考えるようだ。「それじゃぁ!」と、エプロンを外す。

「ヒロコ!大丈夫?又明日ね!」皆がにこやかに送ってくれた。

墓に戻っていくゾンビである。

初出勤で、よほど心配だったのか、旦那のクリス君が店を出た所で待っていてくれた。

クリス君はロイヤルメイルに勤めるポストマン。朝が早く、午後には帰宅する生活なので行き違いの生活が始まった訳である。

「どーだった?」

「死んだ!」

ゾンビの体にムチ打って、夕食はそのままバーガーキングへと直行する。

「今日はもう皿を見たくない」

この日以来、我が家の夕食後の皿洗いはクリス君の仕事となった。

翌日、出勤するとニッキーから「ヒロコ、昨日は良く眠れたでしょ?」

「うん!バタンキューだった!」

横からおばちゃんウエイトレスのルースが、「ねぇ、ミセス・マクファージン、家に戻ってもお皿洗いするの?」

「ノー・ウェイ!旦那にしてもらうことに決めた!」で、皆が大笑い。

ルースは言う「ミセス・マクファージン、何てスコティッシュ的な名前なんでしょう!」  それ以来彼女だけが「ヒロコ」ではなくミセス・マクファージンと私を呼んでいる。

彼女から「はい!昨日のチップよ!」と、三ポンド五十ペンスが手渡された。

「ええ?なぁに?これって?」驚いていると、「この店ではお客さんから頂いたチップを出勤者全員の頭数で割って、翌日に現金で手渡すようになってるの」

「昨日はさほど忙しくなかったから少ないけれど、多い時には五ポンド、十ポンドになるときもあるのよ。これからはクリスマスでパーティーだって入るしね。」とニッキーが付け加える。

(昨日は忙しくなかった???いつもはどんなんやねん?)・・・と恐怖。

でも、時給とは別にこうやって毎日現金で前日のチップがいただけるとは・・・

重たい足腰がちょっぴり軽くなったようである。これぞゲンキンなものだ。

がむしゃらに一週間が過ぎた。エライもので体が馴れて来る。

毎日灰色の空を憂うつに眺め、寒い寒いとストーブの前にかじりついていた今までがウソのように、体がしゃきっとひきしまったようだ。

運動不足とギネス腹で、ブヨヨンとだらしない体型に変形した体だったが、お腹の回りが、引き締まってきた。

日本で履いていたジーンズ、こちらに来てからブクブク太ってボタンがはめられなくなってしまっていたジーンズを押し入れから取り出して履いてみた。

「入る!入る!入るではないか!」エライもんである。

この仕事を得て、たった一週間でダイエットに成功したのであった。

精神的にも肉体的にも健康になったような気がした。

最初はただやみくもに洗っていたのが、リズムが分かるようになる。感が戻って来る。

だが、そこはクリスマスである。長い長いキューが毎日続く。

息つく暇さえない位に忙しい。

スコットランドなので、のんびりダラダラと仕事をするのと思いきや、まぁここは街場のカフェーである。皆が驚くほどによく働く。

女ボスが仕切っているこのお店。

アンにしてもニッキーにしても、アバドニアンばりばりである。

アバドニアンの女性はきつくて恐い。

女性に向かってはあまりシャウトはしないが、男性陣に向かっては容赦はしない。

男性陣は、どんなにきつく怒られても、口答え一つせず、従順に従っている。

まるで軍隊さながらの戦場と化したキッチンである。

例えば・・・

「ランドル!今何やってるの?」

「ツナサンド用のツナ缶開けてるよ!」

「ダメダメ!そんなことは後回しよ!トマトスライスが先なんだから!」

「マービン!何やってるの?オーブンにチキンは入ってる?」

「うん!」

「次はガーリック・マッシュルームで、オニオンスープよ!分かってる?」

「クリスは?」

「ガロニ盛り付けてるよ。」

「それ終わったら回りを整頓しなさい!片づけながら仕事しなさい!」

・・・てな具合で、迫力満点である。

たとえ女ボスであっても、少々日本では考えられない女性譲位の世界だ。

最初は「オヨヨ、おっかねぇー!」と、首がすくんだが、しかし彼女達は女ボスであるからと決してふんぞり返ってなどいない。

実によく働く。細身で美人のニッキーはそのか細い腕でとてつもなく大きく重いずんどう鍋をひょいと持ち上げ、アンはフライパン前でシャウトする。

戦場と化しているキッチン内が落ち着く時、彼女たちも素敵で快活なスコティッシュの女性に戻る。

シャウトした側もされた側も、実にあっさりしている。「ネ」に持たない。あっさりとしていて気持ちがいい。冗談が飛び交い、笑い

声がこだまする。

クリスマス期間中は、まさに毎日が戦場であった。

クタクタのバタンキュー状態の日々であったが、何か自分も社会に貢献しているような気がして心地よかった。

黄色い顔のタドタドしいカタコト英語であっても、皆親切に耳をかた向けてくれて誰も差別なんぞしない。アバドニアンの一員になったような気がした。

クリスマスには、皆で仕事がひけてからクリスマス・パーティーを催した。

十二月生れの誕生会も兼ねてであった。「ハッピバースデイ・マービン、ハッピバースデイ・クリス!ハッピバースデイ・ディア・ヒロコ!ハッピーバースデイ・トゥ・ユー!」と、楽しく盛り上がった。

クリスマスの休暇前は、普段であれば月末の給料支給もクリスマスの前日に支給してくれて店からは「はい!これは店からのプレゼントよ!」と、赤ワインを一本とクリスマス・カードをプレゼントされた。

ランドル:「ヒロコ、昨日の映画はどうだった?」

ヒロコ:「うん!とっても面白かったよ!そうそう、今オデオンじゃぁ、日本の怪獣映画ガメラって映画やってるから見に行っておいでよ!」

ランドル:「僕は怪獣はいいよ!だって、毎日日本の怪獣を見てるもん!」

ヒロコ  :「ええっ?今何て言うたんや?」

ランドル:「あはは!ジョーク、ジョーク!僕をぶたないでぇー!」などと、ヒロコとランドルはいつもふざけている。

その横でクリスが「ぶったらいいんだ!ヒロコ、ぶっちまえ!」

マービンはいつものように股間をボリボリとかく。

アンがすかさず、

「やめなさい!それするの!」

「だって痒いんだもーん!」

大笑いがこだまする。

こんな具合にキッチンは一つの家族のようにチームワークが抜群の実にいいお店なのである。

最初こそ、嫌になったら一ケ月で辞めたらいい。もっといい仕事が見つかったら辞めたらいい。などと思っていたのが、どうやらこの店の水に合ってるようだ。

もう春である。

何かごちゃごちゃした日本の人間関係というものがなく、皆実にあっさりしていて、親切である。この国では「歳を気にする」という観念が無い。

若い女の子たちもまるで友達のように接してくれるのが嬉しい。

この五ケ月間、出入りこそあったが、当分ヒロコは居座りそうである。

フルタイムだったマーヴィンは、火曜と土曜日のパート・タイムとなり、アイルランド出身のステーヴが四月から受け継いでいる。

髭を蓄え、耳にはピアスそして腕には刺青までしている。

最初はおっかねぇーと思ったが、すぐにみんなと打ち解けた。

彼の英語はアバディーンアクセントとは又全然違って全く分かり辛いが、今日も「アイ!アァーイ!」と言いながらフライパンを振っている。

ホールの方にもニューフェイスが登場している。

ダンサーのデヴィッド君は、その愛敬に溢れる顔と抜群のスタイルでもって女の子の人気の的で「看板ボーイ」である。

春になって、心機一転のスタッフ一同である。

店はフレンチ・カフェースタイルではあるが、そこはスコットランド。

アバディーン・アンガス牛のステーキやゲイムと呼ばれるアバディーンの狩猟地帯でとれた鳩・ほろほろ鳥・鹿などもご賞味いただけるようになっている。

私は人妻

「ちょいと、その耳元に息を吹きかけるの止めてちょーだい!あたいは人妻なんやで!」

ラ・ボーン・バゲットのキッチン内で馬鹿ウケしてしまった言葉である。発端はふざけ仲間のランドルだ。彼は以前にも話したことがあるだろうが、若くて元気のいい中々ハンサムな男の子である。日本へ連れて帰れば、ジャーニーズ系。女の子達が回りを取り囲んで、放おってはおかないようなタイプである。彼の出身はここアバディーンではない。

何と、オーストラリアのこれまた本土からはずれたタスマニアの出身だ。すらりと細身で足も長く、なかなか頭の回転も速い。美しい金髪で健康的な笑顔からは白い歯が覗いている。ところがどうした訳か、彼はモテない。どうもアバドニアンの女の子たちのタイプではないようだ。ランドルの口から先に生まれたようなおしゃべりとどぎついジョーク。大人しくしていれば、モテないはずはなかろうが、彼自身でボケツを掘っているのである。しかし、こういう男の子がいると職場は底抜けに明るくなる。

七月のホリデイ・シーズン。
みんなはこぞってホリデイに出かける。
ごたぶんに漏れず、ランドル君も職場のクリス君を伴って、テネリフへ一週間のビーチ・ホリデイに出かけていった。
出かける前には、「飲んで、食べて、可愛い女の子とうひょうひょ!ロマンス、うひょうひょ!」などと、このへんは全く日本の男の子たちと同じようなことを言って、ウカレていた。その間、職場はまるでお通夜みたいに静まりかえり、平和な一週間だった。

この国では日本とは違って、休暇にどこかへ出かけたとしても、職場の仲間にお土産を買って帰るなんて習慣はないし、他の者もまたそれを期待などしない。

しかし戻ってきた二人は「ヒロコ、これ二人からだよ!」と言って、可愛いテネリフのロゴ入り絵皿を差し出すのであった。

「まぁ!」と、さすがのヒロコも驚いた。

ディッシュ・ウォッシャーのヒロコに皿の土産とは・・・なかなか考えたものである。

可愛い奴等じゃぁないか!

「わぁあ!帰ってきたのね!楽しかった?」と、ヒロコを初めとするみんなで声を掛け合う。

ランドル君は「オー、マイ、ヒロコ!マイ・ハニー!寂しかったかい?こっちへおいで!

ごめんよ!」などとベアハグで再会を喜び合うのであった。

しかしである。よほどヒロコに会えなかった一週間が辛かったのか・・・そのベアハグ以来、どうもランドルの様子がおかしいのである。

ヒロコには、急所がある。勿論誰にでもある。

それは脇の下の「こちょこちょ」である。

これをやられてしまったら最後、さすがの男勝りのヒロコであっても「ヒェー!」っと、物凄い奇声を発し、ヘナヘナになってしまう。

学生時代に運悪くこれを発見されては、ちょっかいをかけられ、よく授業中に後ろの席の野郎から「こちょこちょ!」と、脇の下をくすぐられていた。「ひょぇー」の悲鳴でお叱りをうけるのは、このヒロコである。

この最大の急所をこともあろうにランドルに発見されてしまったのだ。

アバディーンで一、二を争うランチタイムの忙しい店のキッチンでいつものように、ヒロコはがむしゃらに脇目もふらず仕事に熱中していると、突然脇の下「こちょこちょ」をやられてしまった。

「ひょぇー!」と、馬鹿でかい奇声を発してしまう。

皆がこの馬鹿でかい奇声に、「何や?何や?何事や?」と、ヒロコを見る。ランドルは腹を抱えて笑い転げている。 「ひょぇー!だって!ヒッヒッヒィー!」  さすがのヒロコもムカついて、大人げなく反撃に出る。

ランドルは逃げまくる。

マネージャーのニッキーが、「やめなさい!二人とも!」まるでやんちゃ坊主にスカートをめくられて、おっかけごっこをやっている小学生の世界である。

ランドルのやんちゃやジョークが日増しに拍車がかかってくる。

水をかけたり、「こちょこちょ」をやったり、仕事に没頭している横にやってきては「ラブミーテンダー!」と、耳元で歌い始め「フゥー」と息を吹きかけてくる。

(何をすんねん!このガキは!)

「僕の可愛い、ハァーニィー!」と、ウインクしてくる。

「やめてんか!あたいは人妻やで!」と、ヒロコが発した一声が、馬鹿ウケしてしまったのだ。

(全く欲求不満かいな!こいつは!)

まぁ、ヒロコが美しくて優しい(言わせてくれ!)からといって、わからんでもない。

いくら西洋の恋愛に歳の差など存在しないなどと言えども、殆ど親子ほど年がかけ離れている。

日本ではこんな年増のおばはんに「僕のハニィー!」などと言おうものなら、張り手の世界である。年上の女性に憧れを抱く年頃なのだろうか・・・まぁヒロコもあと十年、二十年と若ければ、考えてやれないこともないがしかし何と言ってもあたしは人妻なのである。優しく思いやりのある旦那と幸せに暮らしているのである。こんなところで「金曜日の妻たち・スコットランド編」を演じるつもりは毛頭ない。全く困ったやんちゃ坊主である。

早く年相応のランドルに見合うガールフレンドを探してやらねば。などと親心を覗かせるヒロコであった。

さて、ラ・ボーン・バゲットも、早くももう九ケ月になる。自分でも驚いている。

しっかりと、根をはって洗い場を仕切ってしまっている。シェフもその間に三人変ってしまった。

現在は、オーバン出身のグレンが引き継いでいる。

この彼がランドルの兄貴となって、この二人が今とっても波に乗って面白い。

とにかくこの二人は始終歌を歌っている。しかも音痴で・・・・

「オール・トゥゲザー・ナウ」と、ランドルがクリスやヒロコに一緒に乗るように誘い掛けてくる。

彼らはヒロコが本当のミュージシャンだったことを知らない。

しかるにちょいとおちゃらけでリズムをとると、ランドルは「ヒロコが乗っている!」と大笑いする。

けしからん奴である。こちとらほんまもののリズムセクションだったんだぞぉー!

そこにウエイターのダンサーであるデビッドが加わる。

腰をくねくね艶めかしく踊り出す。異様な光景である。彼はほんまものの「ゲイ」で女型である。

目つきが女に変ってしまう。

グレンとランドルが裏声で、ゲイのモノマネをする。

「おー!マイ・ガーーーーッド!」

「ああ、疲れちゃったわよぉーん!」

「もう、いやぁーん!」

ここまでやっちゃうとクリスとヒロコもついていけない。

二人で顔を見合わせて「明日、耳栓買ってこよう!」と、相談する。

華の金曜日になると、グレンがウカレ出す。

「フライデイ!フライデイ!イェーイ!フライデイ!」と、へんてこな即興の歌を作る。ここで、いつもは笑っていただけのヒロコまでもがお尻を振り振り踊りだす。「フライデイ!楽しい楽しいフライデイ!明日はお休み、楽しいなぁ。イェーイ!」。

ランドルやクリスまでも、腹を抱えて笑い転げている。

どうやら段々とヒロコも本性がさらけ出されてしまったようである。

でもどうしてヒロコが乗るとお面白いのだ?本当はお前たちよか数倍かっちょいいミュージシャンなんだぞ!

このグレンとデビッドの出現で、ランドルの矛先が彼らに向かったので、まずは一安心なところである。

先週、ディッシュ・ワッシュのマシンがとうとうイカレて壊れてしまった。

こんなくそ忙しい店のマシンが壊れるということ・・・パニック極まりない。

全ての洗い物をハンド・ワッシュしなければならないという極致を迎えてしまったのだ。

たった一つかないシンクで、グラス、ナイフフォーク、スプーン、食器にコーヒーカップ

、油でべっとりのフライパンから鍋、包丁、タッパウェアーまで、何もかもである。

ヒロコは狂った!

修理屋さんは、この時期はホリデイ期間中でなかなかやってはこない。

しかし、ヒロコは踏ん張った。ヘトヘト、汗びっしょりになりながら・・・・

いつもは、おどけてジョークばっかりの世界だが、ランドルやグレンから「もしヒロコがいなかったら、全くお手上げだったよ。まわらなかっただろうな。よく頑張ったね、有り難う!」と、真顔でねぎらってくれたのっだった。

くたくたではあるが、実に気分がいい。

今日も「フライデイ!フライデイ!イェーイ!」と、お尻を振り振り踊っている。

グレンのパンツ

ラボーンバゲットには、私を含めて四人の中年主婦が頑張っている。特に学生たちのヘルプのないウィークデイのランチタイムはこのおばちゃんスタッフのパワーでもっているようなものである。 女も中年期に突入すると、初々しさが失われる代りに、面白さと陽気さが売り物となる。しかるにこの職場は、ランドルとグレンの騒々しさと、おばちゃんカルテットの華やかな賑やかさで、いつも笑いが絶えない。全世界に共通するが如く、中年主婦が集まれば、世の中何も恐ろしいものなどなくなってしまう。下ネタで「いやぁーん」などと頬を赤らめてブリッコする時代はもうとっくの昔に捨て去っている。

この職場においても、この四人が集まると、とてつもなくやかましい。楽しいジョークが飛び交っている。若い男の子達が下ネタで盛り上がっていると、必ずこの四人のうちの誰かが、にょぉーっと首を突っ込み、加わって、げへへと馬鹿でかい大笑いを提供している。エレーン、メリーアン、ジャッキー、ヒロコのうちの誰かである。普段は職場だけのお付き合いだったのが、「ヒロコ、今度の土曜日、空いてる?旦那を置いて、私たちだけで飲みに行こう!」と、エレーンがどでかいお尻を振りながら接近してきた。

エレンとヒロコはどことなく気があって、いつも「お尻相撲」をやっている。  

マネージャーのニッキーの目をかすめて、暇が出来たら、この「お尻相撲」をやって遊んでいるのだ。エレーンがまず、大きなお尻をヒロコめがけて「ズドーン」とぶつかってきて、先制攻撃をかけてくる。オヨヨとよろめくヒロコもすかさず、やったわね!と反撃に出る。まったくもって、馬鹿みたいなのだが、これがやりだすと楽しいのだ。そんな訳で、四人の中年おばちゃんカルテットは土曜の夜に、旦那をおいて、パブホッピングをして大いに盛り上がって、団結を固めたのだった。エレーンは底無しである。きっと彼女のお尻

にはビールが詰まっているに違いない。そう彼女に言ってやると、豪快な笑いが返って来る。

さて、ある日のことである。

シェフのグレンのコックズボンの丁度お尻の所に直径五センチ程の大きな穴が開いていた。

若い女の子ウエイトレスは本当は知ってるくせに、見てみないふりをしている。  

頬を赤らめて「やぁーだぁー!」と、ほんまは見たいくせに両手で目を隠す。

そんなグレンのパンツ丸見えズボンの穴を少女漫画に出てくる主人公のように目にお星様をキラキラたっぷりはべらせて、いち早くキャッチするのは勿論おばちゃんカルテットだった。

こんな面白いものを素通り出来ますかっ!てな感覚である。

四人がキッチンに集まり、ギャッハッハァーと大笑い。

「どれどれ、見せて!」ギャァーハッハッハァー!「やーん、見せて、見せて!」と皆がグレンに群がって来る。

赤の小さいハートの散りばめたロンパンだった。

「やーだぁ、そーんな可愛いパンツ履いてんのぉー!」ギャァーハッハッハァー!

キッチン内に嵐のような笑い声がこだまし、ホールまでまる聞こえである。

何を思ったのか、しまいにメリーアンがつかつかグレンに近寄って行き、その大きく開いている穴から指を突っ込んで、こちょこちょっとグレンのお尻をこそばしたのだった。

グレンは「これはセクハラだぁ!オレは職場でセクハラを受けてるよぉー!」と逃げまとうが、目にお星様をはべらせたおばちゃん四人が追いかける。

メリーアンは言う。「セクハラなんかじゃぁないわよ!グレン!あんたが、触ってほしい。ねぇ触ってよ!って言ってるようなもんよ、この穴は!」と、はたまた大笑い。

グレンの奥さんは今が子育てで一番忙しい時期なのである。だから、いちいち旦那のコックズボンなんぞを繕ってやる暇などないのだろう。

この直径五センチ穴のコックズボンをグレンは毎日履き続けるのであった。

毎日拝めるグレンのパンツに、おばちゃんカルテットは眼が輝きっぱなしだった。

ヒロコもこのことを旦那のクリス君に報告すると、クリスの方から「今日はどんなパンツだったんだい?」と、毎日興味を持つようになってしまった。

グレンもグレンで「セクハラだぁ!」などと言いながら、ニタニタ喜んでいる。

最もそうだろう。もう結婚して何年も経つ夫婦の間で、奥さんが旦那のパンツ姿を見て、これほど喜んでくれるはずもない。

ところが、職場ではちらりと見えるパンツだけで、これほど喜んで貰えるのだ。

毎日、色とりどりのパンツが眺められるおばちゃんカルテットは、生き生きと仕事にはげんでいる。

やっぱり世の中、お国こそは変われども女の方が断然スケベなんである。


東洋の神秘

ヒロコの暮らすスコットランド。

インド人も多いし、チャイニーズも多い。

しかし何と言ってもここは、白人社会である。

黄色い顔をしたヒロコはあと十年二十年暮らそうが、その肌の色は白くはならないし、死ぬまで私は東洋人なのである。

西洋人にとって、この東洋人というのは、時折何か不思議な神秘を感じさせる存在らしい。

最も東洋人、黄色い顔、イコール・チャイニーズというレッテルはぬぐえない。

しかしこの偉大な国から、日本人である私たちも色んな文化を受け継いできたのも確かなことである。

さて、チャイニーズといえば、中華と、何と言ってもカンフーである。

だが空手というのがこのカンフーを取り入れた日本の沖縄出身の武道であることを知ってる人は結構少ない。

普通の西洋人にとっては、このカンフーと空手は同じもので、やはりチャイニーズの武道と思っているらしい。

さて、この武道を心得ていると、何かと便利なことがある。

ヒロコの友人のM君が、若かりし頃、ヨーロッパを列車で旅をした時のこと。

彼は日本人のヒロコから見て、どう見てもチャイニーズとしか見えない顔立ちをしている。

その彼がヨーロッパ横断の長距離列車の旅の途中、ウトウトと居眠りが始まった。すると、何か座席の下に置いてあるバックをゴソゴソと引っ張るような感覚を覚えハタっと眼が覚めた。

「ゲッ!泥棒や!」なもんで、むくっと立ち上がり、そのイタリア系の男に向かっていつもはしまらないその顔をキリリと引き締めて、ブルース・リーさながらのカンフーの「アチョォー!」のポーズと共に一声を放ったのだった。

するとどうだ、そのドロボーさんは、あまりにもビックリ仰天で腰を抜かしてしまい、ヘナヘナと退散していったそうなのだ。

勿論このM君、武術の心得など全くない。

だが東洋人が放つ「アチョォーッ!」は、かなりの効果があるとかで、それ以来彼は、外国で危なそうな予感が走れば、この「アチョォーッ!」を披露しているそうである。

ただし、ニューヨークの地下鉄で、一回りもでかい黒人三人に囲まれた時には、この「アチョォー」どころではなく、一目散に走ったそうであるが・・・

最もこんなことを日本でやっても笑われるだけの話であるが、ここ西洋に限ってはブルース・リーの如く、カンフーや空手のポーズをとって、「アチョォー!」なぁーんてくれば、ボコボコ・バコバコにされると思うらしい。ましてや、そこに黄色い顔というミステリアスな神秘も加わって来る。

その彼が、いつもヒロコに言っていた。

「アチョォー!」のポーズくらいは、練習しとけよ!いつか役に立つからさ」 。

まぁ、ヒロコにしても日本人であるからには、何か武術の一つでも若い頃に身につけていればよかったものだと今、後悔しているが、相撲でも始めるか。ハッケヨォーイ・ノコッタノコッタ!

でもこれはあまり格好よくない。

さて、神秘と言えば、何も武術に限った訳ではない。

例えば、UKでは中国の「風水」が一時大流行だったし、アロマなんかも見直されている。

だが日本人なら誰でも少し位は家相のことや方位相、鬼門、迷信なんかを子供の頃から何かの形で裏覚えぐらいはあるだろう。

例えば、北を枕にして寝るなとか。レンジの上に鍋を置きっぱなしにするなとか、トイレの蓋は開けっ放ししするなとか、鬼門に汚いものを置くなとか、四隅は奇麗にとか、鬼門にトイレを作るなとか、取り上げ出したらきりがない。

こういうことは始まりは殆どが中国から渡ってきた言い伝えなのだが、やはりこういう迷信めいたことが西洋人にとっては、風水風で何か神秘を誘うようである。

それにアロマにしても指圧にしても、日本人であれば或程度「ツボ」や指圧の知恵が身についている。

肩がこれば熱い風呂に入って、凝った所を揉み解し、サロンパスやピップエレキバン等を張る。

こういうことは、日常生活に無意識に備わっている。

しかし西洋では、現在見直されているとは言え、熱い風呂にゆったり浸かって肩をもんだりするなんてことはありえない。

そそくさとシャワーで体を洗うか、バス・クリームなる石鹸風呂に入って、ちょいとごしごし体を洗えば、はい!おしまいの世界である。肩が凝っても、サロンパスやピップエレキバンなどの張り付いたガイジンの肩など見たことはない。

こちらにもマッサージ(アロマ)というものが見直されてはいるのだが、何やら大層な高価なオイルをベタベタ塗りたくり、なでるようにマッサージするだけである。

日本人のように「痛いとういことは凝っている証拠」だと、痛みに耐える辛抱強さなど備わってはいない。

オイルを塗ってマッサージ、こんなものは子供の遊びのようでまた、よっぽど暇なお金持ちのマダムのやることであって、まだまだ一般大衆には浸透してはいない。

しかるに一般市民は、肩が凝っても疲れても、その疲れを風呂で医すという感覚などなく、疲れは翌日にまで持ち越されてしまう。

その疲れやストレスを解消する方法は、ホリデイにサンシャインを浴びにビーチへ出かけるというしくみになっている。

それに比べ、日本人は「お風呂」「温泉」というダントツ・ピカイチの解消法を持っている。

ヒロコは肩凝り症である。

そのくせ、目をつかうコンピューターや編み物などの細かい仕事が好きなので困ったもんである。だからいつもサロンパスとピップエレキバンは欠かせない。

アバディーンでランチタイムの最も忙しい店、ラボーン・バゲットの面々も皆んなどっぷりと疲れがとれないでいる。

ある日のことである。

美人マネージャーのニッキーが、とことこやってきて「ねぇ、ヒロコ?あなたマッサージなんか出来るんじゃない?」などと唐突に聞いてきた。

「ええ?私はスペシャリストじゃぁないけれど、或程度のツボは知ってるし、以前日本にいた頃、整体にも通ったことがあるから、出来ないことはないけど・・・」

「私の肩触ってみてよ!」

「どれどれ!」と、ニッキーの華奢な肩を押してみたところ、岩のようにカチコチのかちかち山になっていた。

「イタァーイ!ヒロコ何をすんのよ!」

「こら!痛いのは、凝ってる証拠なんだよ!肩が凝ってなかったら何にも痛くないはずなんだ。ちゃぁーんとお風呂に入ってる?」

「やぁね!失礼な!」

「うん?そうじゃなくって、しっかり湯船に浸かってる?ってことだよ。どうせ、シャワーで体を洗うだけなんと違う?」

「うん。」

「しっかり湯船に浸かって、肩を揉み解してごらん。あたし張り薬を持ってるから明日持ってきてあげるから、お風呂で肩を揉み解した後、それを張って寝たらいいだけよ。翌朝、うんと違うはずだからさ」と、レクチャーしてやった。

翌日、ニッキーにサロンパスとピップエレキバンを差し出して、ついでに、目の疲れに効くツボや頭痛のツボなどもオマケに教えてあげたのだった。

ニッキーは目を丸くして、その東洋の神秘に感嘆していたのだった。

「ねぇ、ヒロコ、店の地下に一部屋開いているから、ヒロコのマッサージ・ルームでも開いて、ひと儲けしましょうか?」などと冗談

に花が咲いたのだった。

「いいね。そーいうの。黒い丸縁メガネなんかかけてさ!ニセ鍼灸師!あたしは、アサハラか!」

丁度その頃、おニューで導入されたディッシュ・ワッシング・マシーンの調子がおさらだというのにどうも具合がよくない。

我がシェフのグレンはどうもマシーンとは相性が悪いのだ。

彼がキッチンに入ってきて以来、冷蔵庫がダウンし、お古のディッシュ・ワッシングマシーンがとうとうお釈迦様となってしまった。

すべてが彼のせいだとは言わないが、彼の使い方をみていると、かなり荒っぽい。

そこでヒロコは彼に説教を始めた。

「グレン!機械ってぇーのも、人間同様、生命体ってもんがあるのや!中国の気を知ってるだろ?人間も機械も心を通わさんとあかんのやで!」

(まるで、映画のベストキッドに出てきたミヤギのおっさんだ。)などと、心の中で酔いしれながら。

ヒロコはここで、あの友人のM君の「アチョォーッ!」を、とっさに思い出してしまったのだった。

ヒロコはそのおニューだというのに眠っているディッシュ・ワッシング・マシーンに向かって、深呼吸を深々とついて、両手で合掌の

ポーズをとり、いざ!

「アチョォーッ!」と、両手を前に差し出した。そして、その両手に向かって大きく息を送り込むのだった。

最も大真面目な顔をしながら、全くの冗談だった。

ところがである。

何とその後、機械のボタンを押してみると、「ブィーン!」と動き出すではないか!

これぞヒロコの神通力というやつである。

勿論のこと、グレンはびっくり仰天???クリスはケラケラ笑い出すし、ランドルときたら、「ヒロコは魔女だぁ!」と、騒ぎ出す始末だった。でも何と言っても一番驚いたのはヒロコご本人である。

こんな馬鹿なことをやりながらも、東洋の神秘にスタッフ一同が目を丸くしたのであった。

それ以来、ヒロコは空手のスーパースターとなってしまった。

「アチョアチョアチョォーッ!」こうなると、本気で空手が習いたくなってしまった。

この「アチョォー」の神通力・・・宝くじに向かって何度も「心を通わせて」アチョォーッ!やってはいるのだが、全く効果が表れないのは一体どういうことだ???


風邪の特効薬

気候や気温の変化に充分ついてはいけず、風邪をひいてしまうのは、よくあることである。

そしてどこの国にも、「おばぁちゃんの知恵袋」ならぬ、その風土を織り込んだその国独特の特効薬っていうものが登場する。

その大昔、我がヒロコんちの「ばぁーちゃんの知恵袋」は「へその上に梅干し」だった。風邪をひいたら、へその上に梅干しを載せて寝るっていうものだ。

こんなので、治った試しなどなかった。ただただ気持ち悪いだけである。

やはり、日本を代表するものとしては、「玉子酒」がダントツにポピュラーなものだろう。

この玉子酒との出会いは、大学一年生にまで溯る。

親元から離れ、下宿生活を送っていたヒロコにとっては、バイト先の喫茶店「池」(まだあるんやろうか?)のご夫婦が、親代わりのように親切にして頂いたものだった。

深夜遅くまでバイトに励む、鋼鉄の体を持つヒロコではあったが、やはり人の子。風邪をひいてしまったのである。

そんな時、営業が終わってから、このご夫婦が「ヒロちゃん、これ飲みなさい!ぐぐぐーっとね!」と、作ってくれたのが、この「玉子酒」だったのである。

何とも気色の悪い飲み物には違いなかったが、薬だと思って一気にグググビーと飲み干して床に入った。

すると体はポカポカと暖まり、しっかり寝汗をかいて、翌朝はまるで昨日の熱っぽさやだるさが嘘のようにしゃっきり体が元どおりの鋼鉄のヒロコに戻っていたのだ。

そんな訳でヒロコはあの日以来、風邪を引いたら「玉子酒」と、決め込んでいた。

さて、何かの番組で見たのだが、これがお隣の中国へ行くと、酒が豪華になって、紹興酒玉子になるのではなく、「おしっこ玉子」

となってしまう。

日中両国に共通して「玉子」が登場するところが面白い。

しかし、この「おしっこ玉子」は三才までの幼児の放った「おしっこ」を鍋に入れて、なんとそのおしっこでもってぐつぐつ玉子を茹でるのである。

その玉子こそ、風邪に一番効く特効薬だと、中国の主婦は鼻の穴を大きく膨らませてカメラに向かって説明していた。

まぁ玉子というものは、一昔の中国にとっては宝物である。入院お見舞いには、「玉子」を持っていく・・・というのが習慣だったくらいである。であるからして、「玉子」というのは頷けるが、しかし何故に「おしっこ」が登場してくるのかが疑問である。いくら幼児のものだとは言え、やはりそれを鍋に入れてぐつぐつ。その玉子を食べるという行為は中々出来ないものである。

スコットランドに移ったら、何が登場するのだろうか?

羊の放ったおしっこを鍋に入れて、ハギスをぐつぐつ・・・てな、東洋的発想などありえないし、ここでは玉子は登場しない。

季節の変わり目と、日本では言いたくなるがここスコットランドに季節の変わり目・・・勿論あるにはあるが、一日単位で気温がゴロゴロ上がったり下がったり変化の極めて激しい国、スコットランドだ。

ネイティヴな人間ですら、この変化には対応できず、ついつい風邪をひいてしまうのである。

旦那のクリス君がとうとうダウンしてしまったと思ったら、今度は職場のウエイトレスのリンゼィーから始まってアンに移り、シェフのグレン、(アホは風邪をひかんと思っていた)ランドル君までも連鎖反応でバタバタと倒れていった。

クリス君が寝込んでいる時、職場で特効薬についての話になった。

ヒロコは日本式の「玉子酒」を勧めたが、西洋人は玉子を生でというだけで、顔がぐにぉーんといがんでしまった。

まぁ、この国で日本の酒が入手出来ないことはないが、どえらく不味いので、料理用として使ってはいるが。最も薬を作るのに美味しい、不味いもないのだが・・・

一般大衆と同様に薬局に行くと、色んな薬が並んでいる。

粉薬、錠剤、カプセル・・・中でも一番ポピュラーなのが、「レムシップ」や「ナイト・ナース」などのシロップである。

日本だったらシロップは、主に子供用としてしかイメージが湧かないが、こちらではこのシロップがとってもよく効くのである。

ヒロコも何度かお世話になっている。

睡眠効果が抜群で、まぁ、見事によく眠れる薬である。

さて、秘伝の特効薬となれば、ここで職場のシェフ・グレンが大きく目を開いて「おいらの特効薬を教えてあげるよ!おいらは子供の頃から風邪を引いたら、いっつもこれなんだ!ばぁーちゃんからの秘伝さ!」

「ああ、それ!教えて!教えて!」とヒロコは興味を持った。

「まず、マグカップ。あるかい?」(まさか、そのマグカップをへその上に乗せるんやないやろうな???)

「うん!あるある!馬鹿ほどね。」

「そのマグカップに、レモン半分を絞って入れる!レモン果汁てやつだ!それにブラックカラントの濃縮ジュースを少々、そしてそれに熱湯だ!これだけのことなんだけど、これがまた良く効くのなんの!ビタミンCがうんとこたっぷりで、ポカポカとあったまるしね。(うーん。それってポッカレモンやな。

ふーん帰ったら、旦那に飲ませてみるわ!」

と、頷いていると、横からウエイトレスのメリーアンがあみだばばぁのような恐い顔をして、ぬぬぬぅーっと現れた。

「ヒロコ!駄目駄目!そんなもんじゃぁ、効き目ないわよ!TODDY!風邪にはトディーでなくっちゃ!」

ここでスコットランドから古くから伝わる特効薬TODDYが登場した。

「ああ、それって聞いたことあるある!!ねぇ、教えて教えて!」メリーアンは鼻を大きく膨らませながら・・・・

「マグカップよ!あるわね?そのマグカップにスコットランドのウイスキー!」

「ねぇ?それって。モルト?それともブレンドでもいいの?何だかモルトの方が効き目がありそーだなぁ。」

「そんなのどっちでもいいのよ!要はスコットランドの美味しくって栄養たっぷりの水で作ったウイスキーなら問題ないのよ!・・そ

れにお湯を入れて、ハニーを少々。なかったらお砂糖でもいいのよ。これがTODDY。作ってごらんなさい!我が家はいっつもこれよ!」

(ふーん。そうか、ウイスキーのお湯割りなんだな)至って簡単!

という訳でスコットランドに伝わる風邪の特効薬を二種類手に入れた。

まぁ、風邪は何と言ってもひき始めが肝心である。

「かかったかな?」と思ったら、このスコットランドのTODDYを御試しあれ!

だけど間違っても美味しいからといって飲みすぎて二日酔いにならないように!

グレンはゲボゲボしながら、風邪をひいているにも関わらず、プカーっとタバコをふかしている。

「なぁ、グレン、風邪の時はタバコ辞めた方がいいよ!」

おばぁちゃんからの秘伝も彼にはあまり効果がなさそうである。


キッチン・カルテットのやってらんねぇ

  最近、ランドルがブタってきた。

仕事中いつ見ても彼は口の中に何か放りこんでモグモグやっている。

つまみ食いがやたらにひどくなってきている。

このモグモグがたたって、今ではコック服がはちきれそうになってパンパンだ。

キッチン内は食料の宝庫、何でも揃っている。

バゲットの切れ端、キューリのへた、トマト、サラミ、チーズ、いちご、フライドポテト、ケーキ用のチョコレートなんでも片っ端から

口の中に放り入れる。

「ランドル、ダイエットしなよ!見苦しくなってきたぜ!」

「ランドル、マジで大きくなったよ。」

「ブイブイ!ぶいぃー!ブイブイランドル」

「俺、太ってねぇーぜ!なぁ、太ってねぇーだろ?ヒロコ?」

「ううううう・・・でっかくなったよ、特に腹とほっぺた、ほいでもって首んとこがぁ。これはストレスである。

このラ・ボーンバゲットは恐ろしく安い給料で仕事量は馬鹿ほど多い、彼らの勤務時間も労働局が聞いたら卒倒するほど長時間勤務で、つまりきつすぎるのだ。

ウエイトレスの女の子はやってらんねぇー!ってなもんで、一ケ月ほど働けばそそくさと他の職を求めて逃げ去ってしまう状況である。

特にこの店はどーしたわけか知らないが、めためたよく流行っている。

ロケーションが抜群でシティーセンターの真中にあるせいだ。週末には長蛇の列がグネグネ。特にクリスマスに入った一二月はえげつない。

朝、昼の強烈なお客のラッシュを終えても、夜にはクリスマスパーティーや忘年会のファンクションが入ってくる。

ひっきりなしに入ってくるオーダーの合間を縫って夜の準備と明日の準備を整えないといけないから、ゆっくり休んでいる暇すらない。

このとんでもない状況の下をキッチン・スタッフたった四人で支えているのである。

週末には学生アルバイトで女たらしのイアン君やおかまのマービンが出てきてはいるが、あくまでも彼らはヘルパーなのだ。

そもそもアバディーン一早いグリドル担当のグレン。

アバディーン一早いレタス洗いのランドル。

アバディーン一掃除の綺麗なクリス。

そしてアバディーン一皿洗いとにんにくの皮むきの早いヒロコ。

強烈なスタッフである。

普通なら八人は必要だろう状況下をたった四人でやってのけてしまう。

経営者は勝手なもんで、「出来る!」と分かればわざわざ人を補給してはくれないのである。

四人がヘトヘトで全力を出しきって毎日戦っているというのにである。

疲れも度を過ぎるとはしゃいでいないとやってらんねぇーのである。

だからキッチンはいつも馬鹿騒ぎをしている。

夕刻のファンクション。

スターターのオーダーが入る僅か二?三分の間に四人はこぞって外のゴミ箱へ出る。

唯一のファグ・タイム(喫煙タイム)、シギータイムである。

キッチンのお勝手口を出た生ごみの匂いがかぐわしい?ごみ箱置き場が我々の憩いの場なのである。

四人でごみ箱をぐるりと囲んでウンコ座りしながらプカプカプィーと煙草の煙をモクモクと吐く。

「やってらんねぇーぞぉー!」と叫ぶのが日課となってしまった。

「早く辞めてぇーなぁ」

「ああ、辞めてぇー」

「宝くじだな・・・」

「ああ、宝くじだ」

「なぁ?去年もおんなじ事言ってなかったっけ?」

「ああ、言ってた言ってた・・・・」

「辞めてーなぁ」

「ああ、辞めてぇ?」

「また来年もここでこーやっておんなじ事ぼやいてんじゃねぇか?」

「辞めてぇーな」

むなしい会話を毎日繰り返している。

キッチンへ戻る。ヒロコをシコを踏む。

これがウケた。みんなでシコを踏み、はっけーよいよい。

かすかに残っていたパワーを出しきる。

「グレン、大丈夫?」

「あっかーん。早くおうちに帰りたいよぉー、テレビが見たいよぉー。お風呂に入りたいよぉ」

「ヒロコ、またゴリラになってるぞぉー!」 「ほっとけ!」

ヒロコは時々ゴリラになる。腰がお見事なまでに九十度に前向きにひん曲がる。疲れきった両腕が地面に届くほどにだらりとよだれのようにぶら下がる。両足はO字形の蟹股でのっそのっそとうつろな目をしながらキッチンの中を歩き回る。この「ゴリラ」にいつ変身してしまうのか本人にはその境目がわからない。言われる度に「あら、いけない!」と姿勢を正すのだ。

だが、仮にもレディーに向かって「ゴリラ」とは失礼な男である。だからヒロコも反撃する。

「グレン!スネークになってるぞ!」

するとこの男は顔を真っ赤にしながら怒りまくる。グレンはスネイクと呼ばれるのが嫌いなのだ。

「るせぇー!るせぇー!るせぇー!」

「ランドル、もう食うな!見苦しい」

「るせぇー!」

「クリス、お前はまだアイスクリーム探してるんか!」

「クソったれ!」

真昼のラシュアワーと夕刻のファンクションを終えた四人はグデングデンのクタクタだ。このままとぼとぼと、おうちには帰れんぞぉー!飲むぞ!行くぞ!とグレンが誘う。

「ヒロコ!ダンナに電話しろよ、もう、帰らんってさ!」

「あほう!でも、飲むぞ!」

仕事を終えたカルテットはお隣のパブ、プリンス・オブ・ウェールズへとなだれ込んだ。

四人は一点を見つめながら、疲れきった体を一パイントのビールで洗い流すのだった。

「やってらんねぇーよな。」

「ああ、やってなんねぇー」

宝くじで四人のうちの誰かが当たったら、みんなで店をやめて、共同のレストランを出すなーんて夢をいつも話している。

キッチンカルテットの絆は益々強まっていったある冬の一日だった。

どなたかこの四人をまとめて面倒見てくださるレストランありませんか?

よう働きまっせ!



スタッフ・パーティー

今年もスタッフ・パーティーがやってくる。

職場のお食事会といったところだ。

クリスマスや年末は恐ろしく忙しいラ・ボーン・バッゲットゆえ、クリスマス・パーティーや忘年会、新年会のたぐいはとても疲れき

っていて実行不可能であるから、一月、二月といった比較的お店がのんびりした時期におととしから実行されている。

我がラ・ボーン・バゲットのスタッフ・パーティーは豪華である。

会費が全くいらないのである。

オーナーのアンが全てもってくれる。

姉妹店とも言えるパティオ・ホテルにて毎年開催されているが、ここはアバディーンのレジャー施設の集まるビーチに隣接された四つ星ホテルで豪華なフランス料理の会食となる。

通常ならスタッフのみの招待と思うのだが、ここはUK。

こういったパーティーには惜しまずにパートナーまでも招待されるのが常であるから、夫婦者や婚約者などを同伴して参加する。

休みの時ぐらいスタッフの顔なんぞ見たくはねぇーといきたいところだが、ここはスコットランドである。

タダとなればどこまでも・・・・

案の上、クリス君ですら、ねぇスタッフ・パーティーがぁ・・・と言うと渋い顔をするにはするが、「フリー・ミール!」とタダ飯を期待するのだ。

日頃のヒロコの職場での様子が垣間見れて、結構楽しいなんて言っている。

さて、昨年のスタッフ・パーティーは義父が入院でいろいろ精神的に参っていた時期でもあって、参加を辞退したのだが、一昨年のスタッフ・パーティーではヒロコは醜態を一部の人にさらしてしまった。

とにかく料理が超一流でワインだって普段飲みなれないような高級なワインが出し惜しみされることなく豪勢に出てくる。

当時ちょいと風邪気味でちょいと疲れていた体調だったのだが、タダ飯とあればどこまでも・・・正装してクリス君と共にパティオ・ホテルへと出向いていった。

食前酒も超一流。値段を気にせずちょびりちょびりと始まった。

ヒロコはフランス料理が大好きだ。

レストランは高いし、家で作るにも結構な手間と高価な食材が必要であるから、そう簡単には作れない。

オードブルにはうず高く盛り上げられたホンマもののキャビアが黒々と光っている。

アスダの偽物キャビアで満足していた我が家の新年会とは大違いである。

ここぞとばかりに胃袋へ・・・(今度いつ食えるかわからんぞぉー!しっかり味わっておくんだぞぉー!)と言わんばかりに目をへの字にひん曲げて満足するヒロコだった。

スターターにはご当地のスモークサーモンのサラダと何とフォアグラが乗っている。

おおおお!フォアグラちゃん。お久しぶりねぇ!あなたに会ったの何年ぶりかしら?

と随分の御無沙汰を詫びながら、舌の上でとろりととろける鴨の臓物を愛しく転がしながらこれまた胃袋へ・・・・

お次のスープはロブスターのスープである。

これまた随分と大昔にお目にかかったきりである。

こりこりしたロブスターの身が口の中で遊んでいる。

急いで胃袋に収納するのが勿体無くなってくる。

メインコースは勿論御当地名産のアバディーン・アンガス牛のステーキだ。

松坂牛もいいが、アンガス君だって負けてやしない。

日頃、スーパーでの安売りしかゲット出来ない身分である。

これほど牛が美味かったのか!

ペッパーソースと共に高級赤ワインと交えて胃袋へ・・・もう腹の中は一杯である。

ここまでのあいだにいろいろとみんなで話をしたりワインが次々に胃袋に流し込まれているわけである。

気分は最高に達していた。

極め付けのデザートが運ばれてきた。生クリームを存分にあしらったチーズムース・ケーキである。

だが、もう腹が「やめてんか!どうなっても知らんでぇー」という警告を発している。

しかしフルコースを逃すなんて勿体無いことが出来ますか!ってなもんで、スプーンですくって一口胃袋へ。

すると怒り狂った腹の虫が「ほーら!言うこと聞かんからや。あほう!」と言ってそっぽを向いてしまった。

胃袋から食道へと食前酒・キャビア・サーモン・フォアグラ・ロブスター・ステーキ・赤ワイン・チーズケーキの混ざり合った混合物

が喉の奥まで逆流してきたのである。

普段滅多に食べなれない超高級食材である。

それも短時間に一気に流し込んだ胃袋が目を丸くして驚くのも無理はない。

だがヒロコは席を立ち、トイレへと直行した。

このスタッフ・パーティーはこんな豪華な料理のフルコースではあるが、そこはスタッフのパーティーである。

禁煙となっている室内なので、喫煙者の多いスタッフはワイングラスを片手に絶えずロビーへと出たり入ったりしているので、トイレ中断しようがマナーなんてものはないから気楽である。

トイレに入ったヒロコはグレンの奥さんのキャサリンと出くわした。

「どーしたの?大丈夫?」

「普段食べられないものをたくさん食べたから胃袋がびっくりしちゃって、上がってきた。でも勿体無い!今度何時食べられるかわからへんもんああ、吐きたくない!」

「何ぁに馬鹿なこと言ってんのヨォー!吐きなさい!」

「勿体なぁーい!んがぁ・・(もうあかん)口の中まで逆流してきた・・・・

ヒロコはせっかくの豪華フランス料理のなれの果てを便器に顔を埋めて放出してしまった。 (さよーならぁー、またいつかお会いましょうねっ!)全く勿体無いお話だ。

ガツガツ急いで食べるものではないよな。

心配したメリー・アンにも目撃されてしまった。

ワインのピッチも早かったせいで、酔いが一気に廻ってきた。

デザートのケーキを残したまま、アンが用意してくれたタクシーで戻ってきた。

ヒロコが便器と遊んでいる矢先、クリス(職場の)の前歯の入れ歯がパカーっと皿に落ちて大ハプニングだったそうだ。

誰もが知らなかっただけに馬鹿ウケだ。

それにしてもスコティッシュ達は元気である。

その会食の後はビーチにあるアマデウスというディスコへ繰り出し、朝まで踊るのだ。

グレン夫妻はアマデウスの後、パティオ・ホテルでタダで宿泊したらしい。

昨年も彼は会食後のみんなの残りものワインやビールをがばがば飲み干してアマデウスで踊り狂ってみんなのお笑いと顰蹙をかったようである。

「見たかったなぁグレンの狂気の踊りを」

「今年は飲みすぎないように!馬鹿踊りは踊るなって、もし又やるんだったら、もう付いて行かないってキャサリンから充分注意されているんだ。」

「あたしは今年はがつがつ食べないようにゆっくり食べるように旦那に言われてんの。人がどう飲もうがどう食べようが放っといてよね!お互い大変だねぇ。」

シェフのグレンと皿洗いのヒロコは顔を見合わせながらお互いを励まし合うのだった。    

 

 ワーキングエクスピリエンス

ラ・ボーン・バゲットには、時折日本で言うところの高校生にあたる学生が学校のカリキュラムの一環として「ワーキングエクスピリエンス」にやってくる。

ちょうど日本でも大学に進学し、先生になりたいものが、教育実習と称して母校を訪れて実習するようなものである。

高校生ともなるとこの国では各自将来何になりたいのか、どんな仕事に就きたいのかと大まかに決めなければならない。たとえ大学へ進学しようという学生もこの「ワーキングエクスピリエンス」に参加しなければならない。

ワーキングエクスピリエンス、その名の通り仕事体験、そう、社会実習である。

やみくもに大学へ進み、遊べるだけ遊んで、何の予備知識もなく、卒業後は社会の荒波に放り出され「あれぇ?思っていたものとは違うぞ!こんなはずじゃぁなかった」などという混乱を招くこともない実に合理的なものである。

例えば美容師になりたいものは散髪屋や美容院へ、看護婦さんなら病院へ、コックさんならレストランってな具合で、おのおのの学生達は希望した職場へ一週間送りこまれ、実際の仕事がどういうものか、果たして自分に適したものなのかを見極めるために、この一週間はプロ達の中に混じって無料で働くというわけである。

さて、この仕事選びも様々ではあるが、とりわけコックさんやウエイトレスを希望するものが結構多いみたいである。

何故だろうか?

さすがに今時の学生である。

一週間の間タダ働きをするワーキングエクスピリエンスではあるが、レストランなどに送り込まれる学生たちにはチップの分配を受けることが出来るのだ。

一日に千円近くのチップを頂けるわけで、一週間で六千円近く受け取ることになる。

これが看護婦さんや美容師を選択したものには何のチップも頂けない。

であるから、将来云々関係なく、このチップ目当てに職を選ぶ不届き者も多い。

さて、ラ・ボーン・バゲットにも今までいろんな「コックの卵、ウエイトレスの卵」たちがとっかえひっかえやってくる。

猫の手も借りたい我が店としては、両手を広げての大歓迎で、全くありがたいシステムだ。

だが、この店の恐ろしい忙しさに殆どの学生達は目を回す。

ヒロコも長年飲食店でアルバイトをやっていたので、新入りが入ると一目で望みありか否かの判断がついてしまう。

戦場と化しているお昼のラ・ボン・バゲットのキッチンの流れには、とうてい普通の者はついていけない。

ポッカーンとフランス人形のように立ちつくしたまま、すばやいスタッフの様子をただただ見つめる子、あくびをしている子、こちら

から指示を出さねば動けない。ところが中には、自分から「何をしましょう?」と積極的に聞いてくる子、何も言わずともホウキを持ち出して床を掃く子、様々だ。

さて、このワーキングエクスピリエンスが入ってくると、俄然張り切るのがご存知ランドル君である。

彼はここぞとばかりに兄貴風をビュンビュン吹かせる。

「僕が教えてやるからね!これはこーやるんだぜ!うん!上手いぞ!いい子だ!」ってな具合である。

横で聞いていると「ブヒっ!」と噴出してしまう。

時折「全く今時のガキときたらしゃぁーねぇーなぁ!」などとランドルが腕を組みながら真顔でぼやいている。

(てめーもガキやねぇーか!)と、ヒロコは腹をよじりながら大笑いする。

ただ今マイケル君というひ弱な男の子がワーキングエクスピリエンスとして我がキッチンで働いている。

いい時にやってきている。

何せラ・ボーン・バゲットはクリスマスと新年を終えて、今の時期が一番ヒマな時期なのだ。

だがそんなことは知らないマイケル君。

「えっ?これがヒマなんですかぁ?」と、驚きの表情だ。

色白でヒョロリと背の高いそばかす顔のマイケル君。

クリスの子供の頃に似ている。

トロそうやな。の予想通り、恐ろしく動作がトロイ。

将来のクリス君を思わせる存在である。

一ケースのタマネギの皮剥きの仕事を授かった彼は目を真っ赤にして、涙をポロポロ流して、鼻水をグチュグチュとすすりながら、頑張る彼の姿にいたく感動を覚えてしまう。

ところが中にはいけすかん野郎も遣って来る。

初々しい高校生ならいいのだが、時折料理を選考しているカレッジから遣って来る場合は困ったもんだ。

やたら知識だけが先行してお高くとまっている野郎だからだ。こういう奴らは高級なホテルに出向けばいいものを何でまたこんな街場のレストランにやってくるのか・・。

現場たたき上げで経験を積んできた者にとってはいささか鼻持ちならんはずである。

案の上、カレッジからやってきたロビー君はピシッと糊の効いたしみ一つないコック服に山高コック帽、穴一つ開いていないコック靴、極めつけにコックさんの間では最高級品と言われている「具郎治」グローバルの調理包丁を自分専用に携えて涼しい顔をしながら我等のシェフ、グレンの説明を半分上の空でフンフン聞いている。内心小馬鹿にしているのが見え見えで。

こういうエリートコックを前にわがキッチンスタッフの出で立ちは見た目にはあまりにもお粗末様だ。

グレンのズボンは穴だらけでコック服もボタンがボロボロとこぼれ取れそうにぶら下がっている。靴底には穴が開き、ましてや「具郎治」なんてメイド・イン・ジャパンの高級包丁なんて夢のまた夢。

このエリート、ロビー君がじっとしているだけでもムカツキの対象である。

キッチンカルテットは陽気でフレンドリーで人がいい。だが、エリート面を掲げて、小馬鹿にしたまなざしをキッチンカルテットに向けながら淡々と会話にも加わらずにぶすっっとしていると実にやな気分になってくる。

グレンとランドルがおふざけしていても(こんな馬鹿共には加われない)という冷淡なまなざしを投げかける。

ランドルとヒロコは顔を見合わせて(なんて野郎でい!)とむかついていた。

(いつグレンが爆発するやろね?)ヒロコは気が気ではなかった。

ところが若いながらも現場たたきあげでいろんなレストランでしっかり修行を積んでメインシェフとなったグレンである。ボロはまとっていても、具郎治包丁は買えなくても、こいう奴らをごまんと今までに見てきたのだろうか彼はキレることはなかった。

さすがだねぇ。とヒロコは感心していた。

最も理由は明快だった。

ラッシュアワーが始まるや否やキッチンカルテットはいつもの如くパワーを発揮する。

グリドル前で真っ赤になりながらフライパンを振りながらどんどんオーダーを読み上げていく。スターターはランドル、メインはグレン、クリスはデザートに走り回りながら、みんなで助け合ってフォローに回ったりと動きに全く無駄というものが存在しない。

ところがこのカレッジで理論ばっかを詰め込

んで格好だけのニセコックのロビー君は今何をしないといけないかが全く判らない.。

今何を優先しないといけないかのコックが元来持ち合わせていなければならないはずの感というものを持ち合わせていないのだ。

ただただ読み上げるオーダーの凄さと速さに付いていけず、ただただオロオロしているばかりだ。

結局キッチン内がてんやわんやしている間、彼の居場所はなくなってしまい、使いもんにならないエリートコックは明日の仕込みにまわされ、やっぱりたまねぎの皮を口を尖らせながら剥いていた。

ヒロコは横目で見ながら、持つべき人が持つべきなんだなぁ。と思いながら最高級調理包丁の具郎治を眺めていた。

「なぁ、グレン。今度うちの旦那をワーキング・エクスピリエンスでここへ送りこみたいわァ!」とじみじみぼやいたら、「よっしゃ おいらがタマネギの正しい剥き方のプロに育ててやろう!」と、冗談を交わすのだった。

  

  迷子のキューカンバー

  ムシムシとキッチン内がサウナ風呂のある日のことだった。

狂気のラッシュアワーの嵐が過ぎ、ほっと一息つきながら団欒していると、休憩から戻ってきたエマちゃんが、体中から「?」マークを発散させながらキッチンに入ってきた。

手には大層ご立派なキューカンバー(きゅうり)を持っている。

エマちゃんはこのキューカンバーをズデンとまな板に転がして言う。

「ねぇ、今トイレでね、これが手洗いのシンクのところに置いてあったの・・・・」

まな板に寝そべっているそのキューカンバー。

UKのキューカンバーは日本のものとは違ってやたらにでかい。

しかし、今目の当たりに見ているキューカンバーはでかいことにも輪をかけてどでかい。

まるでへちまである。

グレン、ランドル、クリス、ヒロコのおなじみのキッチン・カルテットはその巨大キューカンバーをしげしげ見つめながら、「こいつは何なんでぇ?」

「気持悪リィい!」

「でかすぎるぜ!」

・・・とそのキューカンバーを取り囲んで笑っていた。

「でもさぁ、どーしてこんなキューカンバーがトイレに置いてあるの?」

トイレ・・キューカンバー・・・・????

四人の計八つの目が点になり、探偵のように推理をはじめる。

しばらくうつむいて、ほぼ同時に四人が顔を上げる。

顔を見合わせたとたんに四人は「グワァーハッハー!ゲッヘッヘー」とこの世のものとは思えない下品な笑いを発散し続けた。

ランドルはひっくりかえり、グレンはかがみこみ、クリスはひたすらワナワナ震えている。

ヒロコはパンパン手を叩き、ランドルの肩をパシパシ叩いている。

四人が推理想像したことはみんな同じということになる。たいしたスケベーである。

駄目押しのようにランドルがその巨大キューカンバーを持ち上げ、クンクンとにおいを嗅いでみる。

「やめなさい!」ヒロコはヒィーヒィー笑いながら転げまわる。

ひとたびこんなばかげた想像をしでかしたもんだから、このキューカンバーがとてつもなくいやらしく見えてくる。

散々コケにしまくって笑い転げた後、このキューカンバーをどう処理するものか・・・と四人は腕を組む。

「誰かお客が忘れたんだろ?」

「キューカンバーだけを?」

「ねぇ、あまりにも大きすぎて気持悪くなって捨てたとか?」

「捨てるなら、ごみ箱に入れないかえ?」

「ジュリアンにして使っちゃえば?」「・・このキューカンバーを??・・・・」

ひとたび変な想像をめぐらしてしまったキューカンバーである。

神聖なキッチンでこいつを使うというのにはガンとして抵抗があるグレン。

「駄目だ!犯されたキューカンバーなんぞ使えん!」と言いながら目がヒィーヒィーヘの字になっている。

やっぱ「忘れ物」として保管すべきやない?

「このキューカンバーを・・・・?」

だって、家に戻って「あらら、キューカンバーがないわ!どこ行ったんでしょ?」ということになって、「確かに買ったのよ、キューカンバー、それも並んでいるどのキューカンバーより大きいのを選んだのだから、間違いないわ。確かに買ったのよ・・・さぁて、買い物の後はどこへ行ったかしら?そうだ!ジェニファーと待ち合わせをしてラ・ボーン・バゲットでお昼ご飯を食べたのよ・・・それからトイレに行って、そして帰ってきたんだわ。だから私の愛しい太くて長いキューカンバーはあのレストランにあるはずよ」ってね。

「どーでもいいけど、よくもそんなストーリーが即座に作れるもんだなぁ」とグレンが感心しながらヒロコを見る。

傘やライターやカバンやあるまいし、「生野菜」の忘れ物っていうのもおかしな話である。

結局、この巨大キューカンバーはラ・ボーンバゲットの冷蔵庫で一晩を過ごすことになった。

ところが翌日、驚いたことに持ち主が現れたのだ。

迷子の巨大なキューカンバーは嬉しそうに体をブルブルさせて冷蔵庫から出てきた。

四人は名残惜しそうにキューカンバー君に手を振り、再び戦場への準備にかかるのだった。

全く人騒がせなキューカンバーである。


ハングリー精神

「ねぇ、どうしてヒロコってそんなにパワーがあるの?どーして?何か変なドラッグでもやってんじゃないの?」

・・・とエマちゃんが実に失礼なことを言う「そーやタバコがあたいのドラッグかな?」

「だいたい信じられないわよ。どーしてそんなにいつもパワフルでいられるのか・・・」

「あのなぁ、人をドンキーコングみたいに言わんといてんか!でもあたしが思うにきっとこのパワーの源は若い頃のハングリー精神から来ているんやと思うわ」

「何ぁに?ハングリー精神って・・・ヒロコおなかがすいてんの?」とエマちゃんはフライヤーにたまっているフライド・ポテトを二本摘み取ってヒロコに手渡した。

「あたいはおなかがすいている・・ちゃう!ちゃう!ちゃうんや!ハングリーな精神のことを言ってるんやて!」

「その昔、ヒロコは若い頃実に貧乏な学生でROCKバンドのドラマーやったんや。」

「あら、格好いい!WADAIKO、時々アバディーンにもやってくるわよね。」

「ちゃう!ちゃう!ちゃうって!和太鼓やない!ドラムやドラム!」

(何で日本人が太鼓をやると言えば和太鼓になって、歌を歌うとなれば詩吟や俳句になってまうんや!全く間違ったイメージを持ってるんでかなわんなぁ。)

「ドラムを叩くにはひとえに体力と根性、そしてハングリー精神しかないんや」

「どーして、ドラムを叩く人っておなかがすいてんの?」

「ドラムは体力いるからや!ああああ、言いたいのはそうやない!」

「だいたいステージでドラムつってもいつもギタリストやボーカルがドラムセットの前に陣取ってる。ほんまはウントコ目立ちたいのに目立てない・・・いつも後ろの方でドコドコ叩いてる訳や。いつか目立ってやるぞ!視覚的には目立たないけど、そうなったら、実力で目立ってやるんだ!とメラメラといつも闘志を燃やしているんやな。」

「ふーん。それとハングリーとどう関係があんのよ?」

「つまりや、ビンボーな人間にも二通りあってな。「いつか見てろよ!」と腹をすかして根性剥き出しの奴とビンボーでもかめへん。と平然と生きていける奴とな。つまりあたいは闘志剥き出し型やったんやな。いつか見てろよ!ってやつ。あたしも若かったんやな。おなかが空いてもがんばるタイプや。ほれ、ロッキー知ってるやろ?」「スタローンの?確かボクシングの映画でしょ?」

「そうや!それや!あのロッキーも無名な頃はこのハングリー精神やった訳や。ビンボーやけどおなかが空いているけど負けへんどぉー!ってな。」

「あらぁ、ボクサーは減量しないといけないから、そんなにバカスカ食べれないのよ。知らないの?」

(ああああ、そうやない!言いたいのはそーいう意味やないんや!ドアホ!)

「あのなぁ・・・ハングリーな魂や!いつか世間をあっと言わせてやるー!って燃えているわけ・・・ところがどすこい、チャンピオンになった途端、ハングリーではなくなった。メラメラに弱くなったやろ?人間ってそういうもんや!何不自由なく育っていると弱くなる・・・」

「・・・てなわけで、ヒロコは若い頃、いつも腹を空かせたビンボーなドラマーやったわけ。吉野家の牛どんを食べてる連中の片隅でパンのミミをかじっていたんや。そういう若い頃の苦労があたしを強くパワフルな人間に仕上げたんやろね。」

「ああああ、かわいそう!ほら、食べなさいよ!」

エマちゃんはまたまたフライドポテトをつまんでヒロコに差し出した。

「ありがとう!・・・・」

「つまり・・・おなかが空くとパワーが出るのね・・・・」

(おまえ、わかってへんなぁ!)

 

  ヒューマン・ZOO

ラ・ボーン・バゲットにはそれはそれは個性豊かな人間が集まっている。

時として「人間」という殻を破り捨て、本性、本能そのままのキャラクターに変身したりする。

実に賑やかで喧しい。

あまりにも喧しいので、それぞれの個性に似合った動物にたとえていると、まるでそこは人間動物園のようである。

ヒロコは先刻暴露したとおり、時々ゴリラになる。

シェフのグレンはスネーク。ねちねちしながらまとわりついて、時々噛み付いたりするから質が悪い。

クリスはとりわけ一番害のない犬ってところだ。誰とでも仲良くいつも尻尾を振っている。

ウエイトレスのメリー・アンはあざらしで、いつもホウホウ吠えていて、ジャッキーはキツツキ。

何時も誰かをつついている。

ランドルはエレファント。のっしのっしといつも何か食っているから?

何故にジャーニーズ系のランドルが象と呼ばれるかについては、これには深い訳がある。

ある日、ワーキングエクスピリエンスで、ウエイトレスの実習に巨大な身体の女の子がやってきた。

ワーキングエクスピリエンスで初々しい若者が入ってくると俄然張り切って愛敬を振りまいて手取り足取りの親切を振りまくランドル君。

勿論それがウエイトレスの女の子ってなことになるともう体中から「親切な格好いいお兄さん」レーザー光線を放ち続けるのである。

何も知らない女の子達はこんな親切で格好いいお兄さんがいる職場って楽しいなぁ。あのお兄さんステキだなぁ。と、くるのである。

だが、彼女達も馬鹿ではない。

三日、四日、過ごしているうちにランドルの馬鹿さ加減に呆れてしまう。

こんなアホウな奴とは知らなんだ。ってなことになって誰も相手をしなくなる。

ところが巨大な身体をゆさゆささせて入ってきたディーンちゃん。

始めっから、ランドルに一目ぼれ。

勿論ランドルはどんな子にも親切である。好みでないからと邪険にはしない。

ディーンちゃんの視線は熱く熱くランドルの首筋を伝っていく。

用事もないのにキッチンへ上がって行こうとするたびにメリーアンに怒られている。

何とか用事を作って、食器を下げてきてはランドルに熱い熱い視線を投げかける。

ヒロコはこの視線をキャッチ!

「なぁ、ランドル、あの子あんたに惚れとるで!」

「ああ、わかってる!強烈な視線を感じるんだ。」

「よかったじゃん。つき合ったら?あんた彼女欲しい欲しいって言ってたやん!」

「よ、よ、よしてくれよ!好みじゃねえーよ。あんな象みたいな女」

「あんた、女の子に象はないでしょ!女は外見よか中身よ中身!案外優しくて尽くしてくれるタイプかもよん!」

「駄目駄目!生理的に駄目だ!象みたいな女は・・・」と言った後、ランドルは腕を鼻の所でダラリンとブラブラ下げてゆらゆらさせながら一声吠えた。

「プぉーん!」

これがキッチン内で馬鹿馬鹿ウケしてしまった。

グレンとヒロコは床に転がって大笑い。

そんな所に例のディーンちゃんが入ってきたからさぁ大変!

「何をそんなに笑っているの?」

「・・・・・・・」みんなは腹をかかえたまま・・・いあや・・・何も・・・・。と笑いを堪えるのに必死の形相。

彼女がキッチンから出ていくとランドルは再び「プぉーん!」

この鳴き声と姿が全く象そっくりなんである。

グレンとヒロコはパチパチ手を叩きながらアンコール!アンコール!を繰り返す。

調子に乗ったランドルはくどいほど象になりきってしまい、終いには彼の仇名が象「エレファント」になってしまった。

今でも時折何かの拍子でヒロコは思い出してはランドルにおねだりする。

「ねぇ、ランドル「プぉーん」やってぇ!」

ランドルは「ったくしゃぁねぇなぁ・・・」と言いながらも、プぉーん!

程度の低い動物園だ。

このグレン蛇とランドル象が時々喧嘩をする

から困りもの。

この二人が組んでいると狂気的に明るくなるか、絶望的に陰気になるかのどちらかになる。

二人の個性があまりにも強くって、時折喧嘩が始まったりしてしまう。

今日のキッチンは狂気的に明るくてヒロコは笑いっぱなしで顔の筋肉が思いっきり疲れてしまった。

明日のキッシュを作っていたランドルがグレンの首筋にちょこりと小麦粉を振り掛けた。

ほっときゃぁいいのに、グレンが「やったわね!」とランドルの頭に小麦粉を振り掛けた。

これでおあいこでやめときゃぁいいのに、はたまたランドルがグレンの顔めがけて小麦粉を振り掛けた。

キッチン内には雪合戦ならぬ、小麦粉合戦である。

「やめなさい!」とヒロコが叫ぶのを無視して、二人はどんどんエスカレートしてゆく。

仲がいいのか悪いのか・・・・。

キッチンのフロアーは小麦粉にまみれ、二人は顔中真っ白け。

ヒロコはホールへ逃げ込んだ。

全く二人ともええ年こいて、小学生みたいなんで困りもんだ。

全身粉まみれの二人は大笑いしながら、お互いの腕をとり、くるくるとフォークダンスを踊っていた。

是非とも写真を取りたかった。

こんなアホなことをやってるレストランは世界で一つしかないんではないか??

このあいだは「どっきり冷蔵庫」で盛り上がった。

キッチンにはどでかい冷蔵庫が四台いてるのだが、この区切り段を取り除けば人間が一人すっぽり入ってしまう。

ランチタイムの大混雑が過ぎた四時前あたり。

キッチンでは明日の仕込みやクーニングにかかる。

当然冷蔵庫は毎日掃除しているので、この時がお遊びタイムとなる。

ランドルがその冷蔵庫ぽっこりすっぽり入る。

知っていたのはメリーアン、クリス、そしてヒロコの三人。

ジャッキーはメリーアンから「オレンジを持ってきてちょうだい!」と頼まれる。

・・・しかしなかなかジャッキーはやってこない。

地下の冷凍室へ冷凍食品をとりに行っていたグレンが戻ってくる。

冷蔵庫の近くに・・・でも彼は冷蔵庫に用事がないらしく開けない。

クリスとヒロコの眼がへに字に曲がる。

このままではランドルは????と思っていた矢先、ジャッキーがやってきた。

オレンジの入っている(はず)の冷蔵庫のドアを開けたと同時にランドルが「ワザぁー」(WHAT‘S UPバドワイザーのコマーシャルで一躍躍り出た流行語)と勢いよくとびだした。

ジャッキーは恍惚状態。

一体誰が冷蔵庫に人が入っていると思うだろう。

平静をを取り戻したジャッキーは真っ赤な顔をして大笑いしながらランドルに襲い掛かる。

全く心臓に悪いいたずらだ。

どっきりカメラもんである。

この日はジルが休みだったので、翌日はジルの番になりそうだ。

この悪戯象と蛇がいる限り何が起こるかわかんない。放し飼いにすべきではない。

そんなたまったもんではないところ。それがラボーン・バゲットの職場ということになる。

 

 リッチーと玉三郎

ゴミ捨て場に集まって煙草を灰色の空に向かってふかしながら「来年の今ごろはここにはいねぇーぞぉー!」とボヤくのが日課だった。

誰がいち早くこのラ・ボン牢獄から任期を終えて出所出来るか・・・それとも一生この牢獄の中で捕われの身でこうやって毎年ぼやいているのか・・・疲れた体にムチ打ちながら四人の脳裏には遥か夢のまた夢のように思われていたそんなある日、突然クリス君が「僕今月一杯で離れるよ」。

グレン、ランドル、ヒロコの六つの目が点点点。

顔を見合わせ、同時に「ギィーヒッヒッヒィー!冗談だろ?嘘だろ?あはは・・・・」

「本当だよ・・・」

彼の真剣なまなざしに三人は半信半疑でがっくりと全身から今持ち合わせている力という力が抜けてしまった。

グレンとランドルという強烈な個性の中間に立って、いつもマイペースで人の聞き役、女房役を演じていた優しいクリス君がいなくなる。

誰もがいつもは目立たない彼の存在がどれほどかけがえなく偉大なものだったかを思い知らされる。

「行かないでくれぇ!いかないでぇ!」と叫びたいところだが彼の将来の為を思って「寂しい!だけどよかったじゃねぇーか!」と祝福する。

キッチンカルテットとして四年もがっちりとチームワークを固め過ぎてきたきらいがある。

ここから誰かが欠けるなどとは誰も思いもしていなかったのだ。

相当のショックを残った三人は隠せない。

だが、時は残酷にも過ぎていく。

彼の送別会は店からとキッチンスタッフだけのものと二つのパーティーが盛大に催された。

彼は北海油田のオフショーへと高額給料と高待遇を求めて旅立っていった。

だが彼の家はここアバディーンにあるので、時折戻ってくるので何も永遠の別れではない。

時折その元気な顔を覗かせてくれ、ヒロコはいつも「ねぇ、何時ラ・ボーンに戻ってくるの?何時でも待ってるよ!」と声をかけている。

さて、いくら三人がスーパー・ハードワーカーとは言え、このキッチンを三人で切り盛りは出来ない。

そこで場したのが、リチャード君とジョージ君である。

ニューフェイスの二人は共に経験あるコックさんなので一から手取り足取り教え込む手間は省けて、即効に三人と溶け込んで又一風変わった交友関係が出来上がっている。

リチャード君ことリッチーはグリドルあがりなのでホットサイド、つまりフライパン側。ジョージ君はコールドサイドで、サラダ、デザート側が主流となった。

だが、やはりこのラ・ボーン・バゲットに要求される強烈なオーダーの数とスピードにはさすがの二人も「クレイジー!」を連発させながら目を回していた。

リッチーは大柄な男で、どこから見ても繊細な印象のフランス料理のコックには程遠く、ダンプの運ちゃんってな感じである。

料理人にたとえればどちらかというと寿司職人が似合っている。

真っ赤に燃えるグリドルの前で猛烈にフライパンを振っている。

しかしここは街場のレストラン。

高級ホテルのフレンチレストランではない。

持ち場がグリドルと決まっていようが、その実何から何まで完璧を要求される。

豪快にフライパンを振る彼もデザートとなると全くセンスがない。

生クリームを皿に敷いてブルーベリーやラズベリーのソースを滴り落とす、それをナイフの先で器用に模様を付けていく。

その上にチーズケーキやらアーモンドケーキ、パイやタルトを乗せ、アイスクリームなんぞを添えていく。

この模様の段階で上手く模様が作れない。

出来上がったデザートは見るからに不味そうなのだ。

グレンから「おめぇ何だぁ?そりゃぁ・・・こんなの犬も食わねぇーぞ!」と言われながら、固まりきらないチョコレートムースがぬべぇーと皿に広がる。

ランドルとヒロコも「こりゃぁひでぇーよ!こんなの出すのぉー?」

リッチーは顔を真っ赤にしながらも「くそったれ!くそったれ!」を連発させながら何度も何度もトライする。

だがさすがにコックさん。練習を重ねるたびに模様がバッチリと決まってデザートが引き締まった時、ヒロコは「凄い凄い!やれば出来るじゃない!」と拍手をしながら健闘を称えたら、この上ないほどの笑顔で、まるで少年のようにはしゃいでいた。

コックさんは実に単純な動物なのである。

さて、ジョージ君はまだまだ二十歳になったばかりの男の子。

細身でいつもコック帽は被らず、その代わり今風にバンダナを頭に巻きつけているナウいコックさん。

フォーミュラー・レーサーのドイツのマイケル・シューマッカーを思わせる顔立ちで繊細な女型に見えるところからヒロコは彼を玉三郎と命名した。

彼はクールでグレンやランドルやリッチーのドタバタ喜劇をいつも冷ややかに横目にしながら淡々と仕事をこなしている。

彼の作るデザートはそれはそれは美しい。

グレン、ランドル、リッチーがワイワイ・ガサガサと騒いでいる間、ヒロコと玉三郎はいつもゲームの話に花を咲かしている。

ゲームオタクの二人はやれ新作がどうのこうの、ここが行き詰まって先に進めん!と情報を交換し合っている。

若いくせによく気がついて「大丈夫かい?」と皿に追い回されているヒロコを気づかってくれたりする。

将来が有望なコックさんである。

クリス君が離れて墓場となったラボーン・バゲットもようやく活気に満ちてきた。

最初は猫をかぶっていた二人も化けの皮がボロボロと剥けはじめている。

リッチーは人間蓄音機のようなランドルのいつもながらの挑発にとうとうリズムを合わせ出し、お尻を左右にくねらせ歌い始める。

スコティッシュは本当に歌を歌うのが好きである。

これが調子に乗りすぎて声がみるみるうちにでかくなる。

二人が共演し始めるとやかましくてしかたがない。

今まではランドルとグレンのコンビだったのが今ではリッチーとランドルのデュエットだ。

クールなはずのジョージまでもが突然何を思い立ったのかウカれて歌いだした。

「ああっ、こいつもやっぱり変な奴やったんや!」

グレンがつかつかヒロコのところにやってきて「僕、こんな職場、もういや!」

また新たなる固いチームワークを確立するまでは少々時間がかかりそうではあるが・・・

 

さようならラ・ボーン・バゲット

「嘘だろ?嘘だろ?冗談だろ?」グレンが腰をひん曲げた。

ジョージも「んな馬鹿な・・・・」と半信半疑。

雇い主のアンも駆け寄ってきて「今日はエイプリル・フールでしょ?そうだと言って!」

ランドルはずっと下を向いたまま微動だにしない。

二月の末から三月の第一週にかけてアメリカはボストンへの休暇を楽しんで戻ってくると、その間にラボーン・バゲットは大がかりな模様替えを施して心機一転、あーあ、またクリスマスまで馬力を出さねば!と気合を入れた矢先のことだった。

三月終わりに旦那のクリス君の転勤が決まったのである。

ヒロコは六年間住み慣れたアバディーンを離れることになったのだ。

「やったぁ!ようやくラ・ボン牢獄からの脱出だぁ!」と最初は喜び勇んでいたが、時間が迫ってくるにつれ段々と寂しさと今迄の思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

不安の塊のように初めてラ・ボーン・バゲットの扉を開いた日。

あれからもう五年も経ってしまった。

にこやかに出迎えてくれたマネージャーのニッキーはもういない。

彼女は結婚をして、二児の母になっている。

当時のシェフだったおかまのマービンは出たり入ったりを繰り返し、今では看護士となって病院に勤務している。

メリーアンはウエイトレスから大昇進を果たしてマネージャーとしてブイブイ言わせているし、いつも優しくフォローしてくれていたクリス君は新しい職を求めて旅立っていった。

マービンが離れた後、数人のシェフが出たり入ったりを繰り返し、ようやくシェフとして君臨したのが、グレン。

彼とは時折喧嘩もしたが、お互いの愚痴をこぼせる間柄だった。いろんな料理のレシピーを教えてもらい、ヒロコは随分と料理のレパートリーが広がった。

そして、メリーアン同様に一番長い付き合いになるランドル。

彼にはじめて出会った時はまだ幼さがにじみ出るティーンエイジャーだった。

アバディーンの何とも形容し難い宇宙人英語の会話の中でいつも助け船をヒロコに向けて流してくれていた。

ヒロコの単語英語をフンフンフンと気長に聞き入れて、通訳してくれていたのも彼である。

釣りに行ってきたと言っては魚に目が無いヒロコにお土産をくれていた。

「来年はここにはいねぇーぞぉー!」と、憩のゴミ捨て場で灰色の空に向かって煙草の煙をくゆらせたことが現実のものとなる。

本当は嬉しいはずではなかったのか・・・・

この職場は異常なほど楽しく、異常なほど腹が立ったり、悔しかったり、悲しかったり。

五年の間にはそれはそれはいろいろとあったもんである。

確かに新天地に向かう嬉しさと仕事を辞める嬉しさはある。だが、この仲間達と離れて行くことは何だか身を切られる思いがする。

ヒロコにとっては旦那を通しての友達関係はどっさりあるが、こうやって旦那から独立して自分自身の世界の中で自分自身の友達関係を確立できた場であったからだ。

雇い主であるアンとも何度かぶつかったこともある。

だが彼女の家で彼女のお手製の料理でヒロコの送別会を催すからと招待を受けた時には仰け反り返って驚いた。

今迄にいろいろいろんな人間が職場を離れていったが、ここまでの待遇は未だかつてなかったことだからだ。

やり手の女主人の家は御殿だった。

まるでホテル並みの巨大な家でフルコースをご馳走になり、プレゼントやカードを頂いた。

「どれだけ私達が寂しいと思っているか、あなたには想像出来ないでしょう」と書かれていた。

職場での最後の日。彼女とベアハグで別れを告げる時、二人の鬼の目から一筋の涙が零れ落ちた。

「最高のディッシュワッシャー!」(あまり嬉しくもないが・・・・)

職場のみんなからの寄せ書きを貰った。

ジャッキーが選んだというそのカードは牢獄から脱出するのを祝福したイラストが描かれ、各自が思い思いのメッセージを書き込んでくれていた。

この大きな一枚のカードが今迄の人生で頂いたどんなプレゼントよりも大切な宝物となった。

グレン、ランドル、ジョージからもプレゼントやカードを貰った。

仕事がひけてからお隣のパブで最後の最後の飲み会を開いてくれ、しんみりと思い出を語り明かしていた。

ランドルはいつもの能天気はどこいった?ずっとしんみりと肩を落としている。

「よう!又来るじゃんけ!元気出せよ!」

「まだ信じらんねぇーんだ」

一番長い付き合いである彼とはある種の妙な友情で繋がっていた。勿論グレンや半年という短い付き合いだったがジョージにしてもである。

ヒロコはそんな彼等に清水の舞台から飛び降りた心境でもって、一人一人に「具郎治」の包丁をプレゼントした。みんなの目は飛び出した。

「こんなの貰えないよ!」

「いや!今迄のお礼だよ。持つべきコックさんが持って初めて包丁は生きるんだぜ!」なぁーんてかっちょいいセリフを吐いてみた。

各自と固い固いベアハグで別れを惜しみながら店を出た。

ランドルは泣いていた。

あんたたちは最高だったよ。ありがとう。

引越しを終えて一段落した。

急に彼等の声が無性に聞きたくなり、電話をかけてみた。

「よう!元気か!何時でも戻ってきていいんだぜ!クリスマスのシフトは空けてるからなぁ!」

やめてくれー!