ライン

プロローグ

大昔、まだ母と呼ばれていなかった母の体内でドクドクと命を授かった私は
快適に暮らしていた。
何故に快適だったのかなんて事は覚えていないが、
そこは人生の荒波とは無縁の生活で、働かざるとも
毎日ムクムクと大きくなれたし、勉強だってしなくて済んだ。
それにややこしい人間関係に頭を抱えることも
なかったからだろうと推測する。
それが快適だった証拠に、陣痛とやらが始まっても私は外界に出てゆくことを
かたくなに拒んでいた。
そんな切羽詰まったある寒い冬の朝、
まだまだ眠っていたかったのを突然の母の叫びによって、
私は命を授かってから初めての硬直状態に陥った。
まだ母と呼ばれていない母は必死で私を外界へ呼び寄せようと何度も試みているが、
私はそれでもなおかつ拒否していた。
すると三日三晩陣痛にのたうちまわった彼女はこう叫んだのである。

「もう、こんな強情な子いらん!先生、もうこんな子いらんから、
押して潰して殺して出して!私を助けてぇー!」


私は聞いたのだ。押して潰して殺して出して!すごい言葉である。
外へ出ればこんな鬼畜のような母が待ち受けているのだから、
おめおめと出て行けるはずはない。
恐怖がまだゼロ歳にならぬうちから動物的本能とやらで、
必死でこちらも防御していたのだが、とうとう狭い通路を通って
私は外界へ出なければならなくなってしまった。
かくして私は外界へおぎゃぁ!と誕生したのである。

人はとんでもなく恐ろしい恐怖に遭遇した時、はたまた眼が点になるくらい驚いた時、
またある時には信じられない馬鹿馬鹿しさに遭遇した時、
そしてまたある時にはこの世がひっくり返りそうな大爆笑の直前など、
一瞬「硬直状態」に陥る。
多かれ少なかれ、これは誰にでもある体験だろう。
私はその硬直状態の数々を時代毎に綴ってみた。
これは私の追憶記でもある。
登場人物に関しては全て実在の人物ではあるが、
氏名に関しては個人の名誉、立場上、偽名を用いた者もいれば
そのものずばりの本名で登場している者もいる。
これは私が成長していく過程の中で出会い、私を取り巻いていた
ひょうきんな人間模様であり、決して悪口ばかりを書き並べたのではない。
全てが今は大切で美しく楽しかった思い出である。
まだまだ死ぬまで硬直時代は続くだろうが、いまここではその一部をご紹介しよう。


アイコン西瓜
アイコン保健委員
アイコン母のお弁当
アイコン山内君
アイコン吉田先生
アイコン栗と大仏
アイコン伊集院隼人
アイコン候先生
アイコン結婚式
アイコン中国大陸初上陸
アイコンちんすこう

               



西瓜


あれは昔々の大昔。
数えることすら億劫になってしまうぐらいの昔。
私は僅かに残っている記憶とやらの断片をジグゾーパズルをはめ込むように一つ一つ拾い集め、1つの「西瓜」になるように組み立てようと試みた。
中には失っているものも数多く、歯抜け状態ではあるが、1つの絵が完成した。
これからこの西瓜のパズル絵をご紹介しようと思っている。

確か私は当時、兵庫県の西宮にある「小鳩幼稚園」の年少組に通っていた頃のこと。
ある日、何も判らないままに私は母に連れられて「西宮市民病院」へと連れて行かれた。
記憶は飛び飛びに脳裏をかすめるのだが、次の記憶は「よいこ」だったか「楽しい幼稚園」だったか忘れてしまったが、これらの絵本がベッドのサイドテーブル並んでいた何となくじめじめとした薄暗い感じの部屋に何人かが詰め込まれた病室の一員となっていた。
そう、入院患者だった訳である。

「どっこも痛くも痒くもないのに、何でここにいるんやろ?へんなの・・・」
全く本人には訳の分かんないまま数日が過ぎていった。
隣のベッドのおばちゃんが絵本を買ってくれたり、お向かいのベッドのじいちゃんがアイスクリームを買ってくれたり、幼児の私にとっては家にいるよりずっと楽しい生活だった。

さて、私が何故に入院患者になり、皆から可愛がられる生活が始まったのかというと、何か喉の病気であるということだけはうっすらと聞かされていた。
だがチクチク痛むとか扁桃腺だとか。そういった自覚症状なんぞ全くなかった。
当時の私はよっぽど知能指数が低い幼児だったのか、不思議にも不安なんぞには襲われず快適な入院生活を楽しんでいた。

数日後、母から引越しの知らせを聞いた。
私はこのちょっぴりじめじめした庶民的な市民病院から脱出して、退院と思いきや、はたまた今度は一変して広大で日当たりのいい「阪大病院」へと病院の引越しをした。
「うわぁーい!病院の引越しやぁ!」などとこれから何が起こるのかも知らず能天気ではしゃぎまわっていた。
当時の阪大病院は本当に広々していて美しく、私は今から思えば2つ星ホテルから一挙に5つ星ホテルに移ったようなこの御殿のような病院がすっかり気に入ってしまった。
ここでもまた、隣のベッドには優しいおばちゃんがいて、いつも売店へ連れていってくれて絵本を買ってくれたのだった。家じゃぁこうはいかない。
お父さんもお母さんも気持ち悪いぐらいに優しい。
この御殿のような病院で気に入ってはいたのだが、ここではアイスクリームやお菓子のたぐいはだれもくれなかった。
「きっとこの病院はおやつを食べたらあかんのやな」などと子供心に思っていた。
「わたしずーっとここにいるぅー!」と、母に言うと何だかものすごく悲しそうな顔をするのだが、実際私はこの時は本当に一生ここに居たいなどと思っていた。

さて、そんなある日のこと、母から「しゅじゅつ」という新しい単語を教えられる。
何でも眠っている間にお医者さんが私の喉の病気とやらを治してくれるらしい。
母はこうも言った。
「手術が終わったら、死ぬほど西瓜を食べさせてやる」と。
「西瓜」
これは私の死ぬほど好きな食べ物だったのだ。
西宮の家には井戸があり、夏になるとこの井戸のなかから出てくる冷たい西瓜に、西瓜は井戸で出来るもんだと真剣に思っていた。
冷たく冷えた西瓜に母が包丁を入れる瞬間というものは、実に素晴らしいものだった。
何かにとりつかれた様に私はいつも叫んでいた。
「西瓜や!西瓜や!スイカ!すいかぁー!」実に程度の低い子供だった。
従ってこの母の「死ぬほど西瓜を食べさせてやる」などという言葉を聞いた時の私の喜びというものは尋常なものではなかった。
だが私には死ぬほどの西瓜の前に立ち塞がる難関である「手術」というものがどんなものかも知らなかったのだ。
この母が「死ぬほど食べさせてやる」と言うくらいだ。
きっとものすんごくむつかしくって、ものすんごくしんどくって、ものすんごく怖くって、ものすんごく痛いのかも知れないぞ!
などと子供心に母の取り引きは絶対に容易ではないことを予感していた。
「でも、あたしがんばるもぉーん!」と言いながらしっかりとここで母と「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ぉーます!」
と、固い固い女と女のゆびきりげんまんを交したのだった。

母は専業主婦であったが、洋裁のプロだった。
注文がどっからともなく入って、噂を聞きつけていろんなところから頼まれていたようだ。
仮縫いなどする時には、彼女はいつも必ず赤、青、黄色等の色とりどりの「まち針」を口にくわえていた。
私のこの病気の原因はどうやらここが発端らしかった。
この母の真似事をやってるうちにひょんなことから「ほいっ」っとくわえていたまち針を飲み込んでしまったのだ。
本人は全く覚えていない。
しかしその針は食道を通って胃の中に入らずに喉と胸の奥深くで引っかかっていたのだった。
西宮の市民病院では胸を開いてこの針を取り出すしかないという結論を出したのだが、女の子でもあるし・・・ということから将来のことを考えて、それに何分危険が十分伴う手術であるということで、阪大病院の某医師が喉を開いて吊り上げてみましょう。
ってなことになった。
そんな訳で西宮から大阪の病院へと引越ししたのである。
今から思えば背筋がぞっと凍りつく話である。
そんなこととは夢にも思わず、お菓子をぼりぼり、アイスクリームをペロペロやっていたのだ。
だいたいまち針を飲み込んだことすら覚えてないのである。
痛くもないから泣かない。であるから、母にも娘の異常が気が付かずそんな針少女は毎日を暮らしていたのである。
「胸と喉に影があるので精密検査を受けて下さい」と幼稚園の健康診断のレントゲン検査で初めて発覚し、西宮の市民病院の患者となった。
つまりどのくらい私は針と共に生活をしていたのかという疑問が沸き上がるが、未だもって不明である。

手術当日、私は薬の匂いがブンブン漂う手術室へと運ばれた。
天井には丸い大きなライトがキラキラとまな板の上の魚のように伸びている私を照らし、さすがにいかに無知で幼稚な私であれどもこれから何かとてつもなく恐ろしいことが始まるのでは?という予感が、私の記憶上での最古の「硬直状態」を作り上げていた。
大きなマスクをつけてビニールの手袋をはめたお医者さんが何人かで私を覗き込んでいる。
何が始まるのだろう?これが手術と言うものなんか?とんでもなく恐ろしくなってきた。
早く終わって欲しい!・・・・でないと、「死ぬほどの西瓜」を食べ損ねてしまうではないか!
この緊急時に及んでも「死ぬほどの西瓜」のことが頭から離れなかった。
「死ぬほど西瓜が食べれるなんて・・・」このことを幼い自分自身の針がどっかに隠れている胸のうちにしまっておけるはずはなかった。
誰かに聞いてもらいたかった。きっと本能的にひょいとして生きていられないのかもしれない。それなら死ぬ前に誰かに聞いてもらって証人になってもらいたかったのだろうか・・・・
そこで私は注射器を持って私を覗き込んでいるお医者さんの一人に打ち明けてしまったのだ。
「あのねぇ、しゅじゅつおわったら、しぬほどすいかたべれるねんで!ええやろー?」
私は仰向けになりながら、このお医者さんがブフっと吹き出すのを見てしまった。
「ええなぁー。よかったなぁー。頑張って死ぬほど西瓜食べやぁー」と、言ってくれた。
ここで普通の子供なら大人しく麻酔が効きはじめて眠ってしまうところである。
ところが「うん。おかぁさんがやくそくしてくれてん!ええやろー!」
「ええなぁー」
(ホレ、ホレ、麻酔、麻酔!)お医者さんは私の口を塞ごうとするのだが、私は喋り続ける。
「おっちゃんもすいか、たべたかったらあたしのちょっとわけたるわな!おかぁさんにきいてみぃ?
きっとおっちゃんのぶんもくれるとおもうでぇ・・・おかぁさんなぁ、びょーいんにきてからすごくやさしくなってん。」
「ふぅーん。じゃぁおっちゃんもお母さんに頼んでみよかな?今な、麻酔してるから、もうすぐしたら喋られへんようになるでぇ。」
「ええっ?あああ。ほんまや!しゃべられへん!」
「喋ってんがな・・・・」
これは創作ではなくマジである。
まるで漫才のボケとつっこみのような会話を私は未だに鮮明に覚えている。
現在、この先生がどこでどうされているのかと、ふとこの命の恩人を捜し当て、思いっきり抱きしめたい心境にかられる時がある。

目が覚めるとベッドの上だった。
首の回りにまるでミイラのように包帯がぐるぐると巻き付けられていた。
手術はどうやら成功したようだ。
麻酔覚醒後のぼぉーっとした状態だった。
お医者さんは私の喉からボロボロに酸化した2本のまち針を取り出してくれたそうだ。
何でも針の部分は酸化してボロボロでも、まちの部分の黄色と赤の玉はしっかり原色を留めていたそうである。
何故に記念として保管しておいてくれなかったのか。
これだけが後悔する。

まもなくして、「西瓜」のことを思い出してしまった。
私を覗き込んでいる母に「す・い・か!はわぁー?」と、尋ねるのだが、思うように声が出ない。
我が子が満身の力を込めて「西瓜はぁ?」と聞いているのである。
普通の親ならいくら声が出ないと言えどもわかりそうなものであるが、手術が成功した途端、いままで優しかった
母は元どおりに戻ってしまった。
意地悪く聞こえない振りをしているのが、幼心に判っていた。
数日たって、ようやく声が出るようになった。
再び私は挑戦した。
「すいか、はぁ?」
すると母はとぼけた顔をして「そんなん、包帯が取れんと食べられへんやんか!」

実にショッキングな答えが戻ってきた。
それからの毎日は、このミイラの首になってしまった包帯が何時取れるのか?ただひたすら待つ日々だった。
なかなか包帯は取れなかった。
業を煮やして「いつ、ほうたいとれるのん?」と母に聞くと「一生取れへーん!」
何て母でしょう。
強烈なパンチを食らってしまった。
私は泣いた、泣いた、泣き狂った。
こんな悲劇を一人で針のいなくなった小さな胸にしまっておくにはあまりにも幼すぎたのだった。
同室のおばちゃん、向かいのおにいちゃん、隣のおじいちゃん、はたまた看護婦さん達にも私の最大の悲劇を訴えに毎日奔走していた。
みんなはぶひひと笑いながらも真剣なまなざしで訴えるアホウな少女に同情のまなこを向けてくれながら「大丈夫!きっとすぐに包帯が取れて、死ぬほど西瓜食べれるから!」と、慰めてくれたのだった。
大体人間の人格形成はこの頃に完成するという。
私の異常なほどのしつこさはまさにこの時に出来上がってしまったのだろう。
後年、大学に入り、ある先輩から言われたことがある。
「お前は(ウツボ)みたいな奴っちゃ!」
「ウツボって何やねん?」
「一旦食らいついたらてこでも離れへん、怖ぁーい魚のこっちゃ!」
「ふぅーん。」
そうか、確かにそんな所はある。妙に逆らわずに素直に納得してしまった。

まさしく退院後の私は、まだ包帯をしながらも包帯が取れた日のための母に対する攻撃準備に余念はなかった。
何度となく攻撃を繰り返すのだが、いつも母は取り合ってくれなかった。
「ほんまにしつこい子やわ!誰に似たんやろ?」
などとそっぽをむく。

包帯が取れた日から、もううん十年が過ぎ去ってしまった。
しかし母は、あの手術の前日に交した女と女の固い「ゆびきりげんまん」を未だに果たしてくれてはいない。
確かに西瓜は食べた。だが死ぬほどの西瓜ではない。
大人になった私は自分のアルバイトのお金でこの悲願を達成してみたいという衝動にかられた。
西瓜を丸ごと3個買い込んで下宿の部屋で挑戦してみた。
人間、死ぬほど食べるとは言っても限界がある。
結局のところ1個半が限界だった。
たった1個半の西瓜のために、母は大嘘つきになってしまったのだ。
そんな母から生産された私は小さな嘘つきで、きっと神様がこらしめて2本のまち針を飲ませたのかもしれない。
「ゆびきりげんまん、うそついたら、針千本、飲ぉーます!」
千本の針を飲むのに相応しいのは母の方である。




保健委員


昨今では「お尻のワッペン」という実に画期的な保健衛生上便利な「ぎょうちゅう」発見システムを確立し、爽快で快適な学校時代を迎えることの出来る現代を喜ばしく感じている今日このごろ。
大体において職場などいろんなところで学校時代を語る時、これからの課題となる「検便」と「給食」を暴露するとおおかたの歳がバレる。
その時代時代、時には地域によって多少のズレは生じても、ある程度の目安となる。
どんなに若造りしていても、給食の話題で「くじら」が好きやったわぁ!とか脱脂粉乳だったとか言ってしまうと絶対にいけない。
これらを語る時には充分注意しないといけないのである。

さて、これから語るのが「検便」である。
「検便」にはその提出容器1つとり上げても歴史がある。
私は大阪のど真ん中、現在は中央区となってしまっているが、まだ「南区」が存在した頃、「道仁小学校」という小学校で入学式を迎えた。
母の生まれ故郷の西宮からミイラ首の少女は退院後まもなく父の生まれ故郷の大阪に引越ししてきたのである。
この小学校で生まれて初めての検便というものに巡り合った。
私の検便に関しての最古の記憶を紐解いてみる。
担任の三田先生より黒板に描かれた説明を受けたのだった。
「自分の家にあるマッチ箱に葉っぱを敷く、そしてその上に朝一番のほかほかウンチをのせて、持ってきなさい」と。
実に原始的ではないか!
だが、これが最古の記憶である。
後日、これを話すと誰もが仰け反りかえった。
「お前、ほんまは幾つやねん?」「お前歳ごまかしてるやろ!」「やだぁー、何ぃー、それぇー!」などとことごとく馬鹿にされた。
同年代の連中の間でも、この家のマッチ箱に葉っぱを敷いて・・・・などという学校はそんじょそこらには存在しなかった。
案外地方の学校の方が、こと検便に関しては数段進歩していたように思える。
今から思えばあの頃の大阪は「万国博覧会」の開催を目前にした工事や地下鉄の大々的な工事でやっきになっていた頃である。
そんな折り、小学校の検便ごときに「金」など廻ってくるはずもない。
大阪の検便システムは他の地方に比べて遅れをとっていたのだ。
しかし、これも翌年からは保健所が誂えたプラスチックのマッチ箱にそのままウンチ・・・ということで、ようやく地方に追いついたことになる。

さて、小学校時代の私は勉強が大嫌いであった。
都心の学校であるこの小学校は、生徒数がドーナツ化現象のために極めて少なかった。
1クラス20名ほどで2クラスしかなかったのだ。
そして私の隣のクラスには遠い親戚の「豊田福子」がいた。
同じ学年の親戚の彼女は美人で頭は学年トップ(とは言ってもたった40名)勿論彼女は学級委員で、学芸会なんかじゃぁ、「桃太郎」の主役の「桃太郎」をかっちょよくやってのけた。
我クラスは「ぶんぶく茶釜」で、私は名も無いセリフも無い村人その?でちゃんちゃんこを着て、舞台のカーテンに隠れるようにして立っていた。
全く格が違うとはこのことである。
母のこの頃の口癖は「福子ちゃんは賢いのに何であんたはこんなんやろ?」と、真っ黒けな顔をして、いつも膝小僧から血を流している
私を眺めながらこう言ったもんだった。
だが、大体とんびは鷹を産みはしないのである。
とんびはやっぱりとんびの子、カエルの子はカエルなのだ。
母としてみれば他所の子と比べるということで、私の奮起を煽ろうとしたのであろうが、実に甘い。
私はいつもマイペースだったからである。

三田先生から検便の説明を念入りに受けた。
猶予期間は2日間だった。
第一日目は極度の緊張感にさいなまれ、出るはずのものが出ずに終わってしまった。
翌日学校で「検便」を提出している友達を羨ましい思いで眺めていた。明日こそは頑張らねば!と気合が入っていた。
勉強や宿題なんぞに関してはことちゃらんぽらんな私だったが、それ以外のことでは殊更几帳面な性格をしていた。
遠足なんかになるとおおよそ1週間以上も前から毎晩リュックサックを覗き込んでは中の持ち物に異常がないか確かめるという神経質な意外な面もあったのだ。
しかるにこのような目にみえるようなチェックは万全に対処出来ても、明日の朝やってくるかこないかわからないウンチに対しては安心して眠ることすら出来なかった。

提出期限の朝がやってきた。
起床するやいなや、すぐさまトイレに駆け込んだ。
うんとこきばってみたのだが、おしっこは出ても肝心のウンチの到来がなかった。
ひたすら私は焦った。
顔を真っ赤にして何度も何度もきばってみたが、全くウン意をもよおさず、終いには泣きだしてしまった。
「うぇーん・・・うぇーん、ウンチがでないよぉー!うぇーん、三田先生に怒られるよぉー、今日は学校へ行かない!
うぇーん」と、駄々をこね出した。
そこへ母がやってきた。
「天の救い」に見えた母だった。
トイレに入って母も数分間頑張っていたのだが、「あかんわぁ、出ぇへん」
便秘症の母は泣きじゃくる私に済まなそうにこう言った。
びいびいと朝の早くから泣き喚いている私の泣き声で父が目を醒まして起きてきた。
「何をびぃびぃ泣いてるねん!一体何やねん!」とうるさそうに父は尋ねた。
母が事情を話すと父はそれは一大事!とばかりにトイレへ入っていった。
彼の名前は「健吉」である。
健眠・健便の代名詞のような健康な男である。
父はしばらくして涼しい顔をしながら、「出たぞ!ヒロコ!これ、持っていけ!」と、嬉しそうに割り箸で自分の便を一盛りつまんでマッチ箱に美しく収納しようとしていた。
この状況を一部始終見ていた私はしばしの「硬直状態」に陥った。
その硬直状態が解けた後、まるで火が付いたように甲高く泣き出した。
私は父の進呈物を頑固に拒否したのだった。
「何でや?お父さんのウンチは汚くないぞぉー!」と、父は言うのだが、これは汚いとか奇麗とかいう問題ではないのだ。
「せっかく出したんや!勿体無いやろ!ほら、持っていけ!」これは勿体無いとか勿体無くないとかいう問題でもない。
とにかく「お父さんのウンチはいややぁ!」と早朝の豊田家に私の泣き声がこだました。
確かにウンチに優劣などないだろう。だがしかし、お母さんのウンチならいいけれどお父さんのウンチは生理的に拒絶反応を示してしまう。子供心に何かが違うんだ、お母さんのウンチとお父さんのウンチでは何かが違うんだ!とかたくなに拒絶した。
終いに父は怒ってしまい、水洗の水を一気に流して父のウンチは遥か彼方へと流れ去ってしまった。
それでもやはり父親である。
自分のウンチは娘から拒否されたのだが、今度は「ほら!ミイのウンチや!持っていけ!」と、その当時我家で飼っていた
猫のミイのウンチを引っさげて私の目の前に差し出した。
それは殆ど干からびたものだった。
母は隣でひいひい笑っている。
その時の私は真剣そのものだ、ジョークなんぞ通用しない。
こんなド馬鹿な子供ではあったが、猫と人間のウンチが何か違うことぐらいは判っていた。
後年、大学でこの話をした時に、ある先輩の男は「俺なんぞは犬の太郎のウンチ提出して、後で先生にこっぴどく叱られた」と言っていた。
ミイのウンチを持っていかずして本当によかった。
結局、当日は母に付き添って貰って学校へ行き、母から三田先生に事情を説明してもらった。三田先生は優しかった。
今から思えば実にアホらしい。
たかがウンチ1つの為に何故に豊田家が朝の早ようから大騒ぎしなければならなかったのか・・・

さて、思春期を迎える年代ともなると、この「検便徴収」は実にやっかいである。
これは思春期の生徒の実に恥ずかしい名誉と名声と地位をも傷つけるシステムとなるのである。
クラスの中で「学級委員」を筆頭に各委員が選出、若しくは強制配属されることになる。
その各委員の中でもランク的には下後方に「保健委員」というものが存在した。
何をするのかというと、ハンカチ、はなかみ、爪といった衛生検査を小学校ではこの保健委員にやらせていた。
中学や高校ではこんな馬鹿らしいことはしないが・・・
では中学や高校の保健委員は何をやっていたのか?
これは何度となく保健委員を経験した私が語る。この保健委員のメイン・イベントは何を隠そう、検便の徴収運搬である。
検便提出当日の朝、クラス中のホカホカ出したてウンチの数々が集められた透明のビニール袋を保健室まで、追いはぎに合うことなく安全にかつ慎重に保健室まで無事に運び届けるという大役を仰せつかる訳である。
この使命は重大である。決して転んではいけない。誰のウンチが納まりきれずに飛び出していたとか、どいつのウンチが臭かったとか、決して名誉を傷付けるようなことを一切口外してはいけない。
ましてやこの皆様から集められたウンチの数々の入ったビニール袋をかついでそのままとんずらする「(ねこばば)とはよく言ったもんだ」なんて信頼を裏切ることはもっての外である。
この使命は責任感と信頼感の人一倍強い私にぴったりとはまった役だった。

朝一番に排出されたまだぬくもりすら感じる「検便」の数々は、朝の教壇前にぶら下がっているビニール袋に各自が一目を偲んで放り込まねばならない。
まぁ、凡人やその他大勢ならまだしも、クラス1美人な「白鳥麗香」であっても、クラス1頭のいい、スポーツマンでハンサムな矢吹ジョーであっても検便からは逃げることは出来ない。
白鳥麗香であっても矢吹ジョーであっても所詮は人の子である。
人の子である限りウンチはするのであるが、これが思春期の頃には信じ難いことになる。
「ええっ?白鳥麗香がウンチ???おいらは信じねぇーぞ!」「ええっ!うっそぉー!矢吹君がウンチ?やだぁ!うっそぉー!」
と、汚いものには蓋をしたくなるお年頃である。
メルヘンに酔いしれている年頃なので、こういうヒロインやヒーロー達は検便提出日には大いに苦労があったことだろう。
私はその点では楽だった。
ヒーローでもヒロインでもない。
保健委員という特権を活かして、保健室に到着するまでに自分の「ブツ」を放り込めばいいのだから・・・
・・・とはいっても、50名近くのほかほか弁当ならまだしも、ほかほかウンチ袋を運びつつ、来年こそはこの役ゴメンといきたいなぁと思った思春期の保健委員だった。






母のお弁当

小学校1年生。
私は生まれて初めての遠足というものを体験した。
何せ狭い教室で退屈な勉強から開放され、自然の中での団体生活、ましてやおやつまで食べられるのであるから楽しくないはずはない。
うん。確かに遠足とは楽しいものだ。
遠足のお知らせを受けたら、当日までリックサックにいろいろと詰め込んでは、出したり入れたり、確かめたり、それはそれはキウキして前日なんぞは眠れなかったりしたもんだ。
これはおばはんになっても、リックサックからスーツケースに変っただけで今でもやってることは変わらない。
休暇が決まり旅行の予約をした段階からいそいそほいほいとスーツケースを引っ張り出してわさわさといろんなものを詰め込んでいると、両親はそんな私の姿を見ては大笑いをする。
「お前は子供の頃から全く変っていない!」と。
結婚した今でも今度は亭主に「一体いつ行くんだよぉ?」と呆れかえられる。

さて、話を遠足に戻す。
楽しいはずの遠足、勉強しなくてもいい日でおかしだって食べられる。
ところがここに予期せぬ落とし穴が潜んでいようとは夢にも思わなかった。
その落とし穴はお昼のお弁当の時間に幼い私は、ぽっこりとはまり込んでしまったのだ。

母は料理が下手であった。
それは今でも変わらない。
下手という表現がどんぴしゃなのかわからないが、とにかく母は料理が嫌いなのである。
母にとっての料理とは、ただプワァーンとお腹がふくれればいいのであって、センスだとかバラエティーなんかのたぐいの才能は一切持ち合わせていない。
であるから母の作る料理という料理には「色」がない。
あえて色をとり上げるのならばそれは「茶色」である。
大豆や昆布のお煮しめ、ひじき、サバの味噌煮、おでん、いもの煮っ転がし、という具合に何でもかんでも出汁としょうゆで炊き込んでしまう。
これが数日分どっさり炊き込んでしまうので、これらの献立が延々と続くのである。
これらの食品群はまさに栄養満点ではあるが、お弁当には相応しくない。こんな母でも、母の妹、つまり私から見たら叔母さんは全く正反対で彼女が我家に遊びに来るといつも腕を振るってご自慢の料理を作ってくれる。
その彼女から母はハンバーグなるものを教わった。
我家の献立にハンバーグという洒落た西洋料理が加わったのは何と私が高校生になった頃だった。
これは一大革命だった。母は毎日毎日ハンバーグを作りまくった。
こんな母の元で育った私は子供の頃から煮炊物が嫌いになってしまった。
大学に入り、下宿生活を始めて自炊をするようになって、料理好きな友達からいろんな西洋料理を教わり、仰け反り返る感動の毎日を迎えるようになった。
グラタンというシロモノを食べたのもこの頃である。
この世にこぉーんなうめぇーもんがあるなんて!信じられん!ああ、神様、ありがとう!
と、しばらくグラタンばっかりを胃のむかつきを押えながら食べていた。

さて、生まれて初めての遠足で生まれて初めてのお弁当の時間がやってきた。
ビニールの風呂敷きを敷いて自分の座る陣地を決めてその上にちょこんと正座し、リックサックの中からお母さんが詰め込んでくれたお弁当を取り出した。
今でこそお弁当箱もいろんなタッパウエアーで大きさも形も様々であるが、その当時の私のお弁当箱は
アルミの四角いもので、日雇い人夫のおっちゃんたちが飯場でパッコーンと蓋を開けて食べているようなそんなお弁当箱だ。
センスのいいお母さんたちならば、お弁当の包みも可愛いらしい布のナプキンなんかで包んでくれるものだが、私の母が包んでくれたのは新聞紙である。
リックサックから取り出す時点で、幼心にとてつもなく嫌ぁーな予感が走った。
お弁当から煮汁が出て新聞紙に乗り移り、ベタベタに張り付いている。
この煮汁は新聞紙も通過して他のおやつやハンカチやはなかみまでにも茶色に感染させていた。
私はそんなベタベタに弁当箱に張り付いた新聞紙を情けない思いで剥がしてゆき、恐る恐る弁当箱の蓋を開けてみて、硬直状態に陥った。
そこには無残な程の茶色の畑が広がっていた。
その四角四面の空間には茶色以外の色は存在しなかった。
本来ならば半分は占めているだろうはずの白いご飯の領域がおかずの領域から流れ出てきた煮汁によって見事なまでにまっ茶色に変色している。
おかずに至っては昆布のお煮しめ、ひじき、大豆の煮豆、じゃがいもとこんにゃくの煮物などが所狭しとひしめき合っていた。
これが育ち盛りの女の子の初めての遠足の初めてのお弁当である。
食欲と言うものが一気にすぅーと萎んでしまったのは言うまでもない。
私は何だか悲しかった。
ご飯はぼろぼろとしていてお箸でなかなか口まで運べない。
友達のお弁当を横目で眺めると、そこにはお花畑というかメルヘンというかロマンというロマンがぎっしり広がっている。
赤いウィンナーにきゅうりの帽子がかぶせられたタコちゃん、焼け焦げなんぞどこにもないまるでお店で売っているような玉子焼き、V字型にカットが施されてあるリンゴのうさぎちゃん、チーズやきゅうりが詰め込まれたちくわ、牛肉やかまぼこ、小さなハンバーグやミートボール。
ご飯だって違う。
彼女たちのご飯はただだた敷き詰めているものではなく「おにぎり」という手の凝ったもので、おまけに海苔や昆布や玉子なんかで巻いている。
まるで24色のさくらクレパスである。
「ああ。愛されているんやなぁ・・・・」と、私は小学校の1年生の地点で世の不公平を身を持って体験したのである。
・・・かと言って、自分で台所に立って弁当を作るなんて芸はまだまだ持ち合わせていなかったので、仕方なくこの茶色のお弁当が数年何度となく訪れる遠足で私は再会するのであった。
当然のことながら、遠足は大好きだが、ウキウキするのだが、お弁当の時間になると少々憂うつになっていた。
私は決心した。
大きくなったら自分でさくらクレパスのようなお花畑のお弁当を作るんだと。
茶色のお弁当なんてゴメンである。

中学に入ると私は遠足のお弁当は自分で拙いながらも作るように成長していた。
母としては大助かりだったはずである。
後年私がお料理好きになったのはこの母の大いなる影響である。
高校になると毎日がお弁当だった。
勿論毎日の日課にこの弁当作りが加わっていた。
高校では学食でラーメンやカレーライス、そば、などというメニューや購買でパンなんか買えたのでグーンと選択権が広がり、私の弁当作りの負担を軽減してくれていた。
体格のでかいニキビ面の、いつも怖い吊り目をしたつっぱり男子学生なんぞが、お昼になると奴等のお母ちゃんから持たされたお弁当を広げている。
こーいういかつい兄ちゃん達のお弁当は決まって24色のさくらクレパス、お花畑なのである。
「こーんな奴でも、やっぱり愛されているんやなぁ・・・」と、ウィンナーのタコちゃんを愛しげに口に放り込んでいる奴を見ながら思っていた。
我家の色に乏しい冷蔵庫の食材を眺めながら毎日苦心するのが私の日課であった。

ある時、父が私にある告白をした。
当時の父は大阪の小さな事務所で働いていたのだが、お昼になるのが嫌だと言う。
何でも原因はお弁当にあるらしかった。
事務所は小さいながらも人がいるし、事務員のお姉ちゃんもいる。
父が言うには、お昼になるとお弁当を広げなくてはならんが、これが恥ずかしくて開けられない。
彼のお弁当は煮汁が至るところに汚染していた私のものとは違っていた。
彼がお弁当の蓋を空けると、やっぱり硬直状態となったのである。
そこに広がっていたのは、白いご飯が8割を占領してぎっしり敷き詰められ、あとの2割の領域に生のちくわが2本どでーんと寝そべっていたという。
包丁で切ってみるという時間もなかったんか!と父は呆れ返る。
しかし、母に文句を言おうものなら、「嫌やったら、自分で作りぃ!」とそっぽをむかれてしまうのがオチである。
そこで彼は彼なりに考えた。
「ごま塩」である。
彼はスーパーでごま塩を購入して、机の引き出しに常駐させ、お昼の時間になると、このごま塩の瓶と共に蒸発を決め込むのである。
事務所から蒸発した彼は公園のベンチでこのお弁当にごま塩を振り掛けて格闘するのである。
だが、晴れている時はいい。
雨が降ったらどうしても事務所で食べなきゃならん。これが苦痛でな・・・・
父は悲しそうな顔をした。
父と娘、お弁当での悲しい思いが痛いほどよく分かり合える。
私は大いに同情した。
いつもより早く起きないといけなかったが、「明日からあたしが作ったるわ!」と約束してしまった。
それからは2つのお弁当を作る毎日となった。
父は大喜びだった。
ところが数日後、父は申し分けなさそうな顔を向けて私に言った。
「奇麗なお弁当は有難いんやけど、あのタコちゃんとうさぎちゃんは止めてくれへんか?恥ずかしいねん。事務員のお姉ちゃんが、あれ見て、かわいいぃー言うて笑いよるんや・・・」
これには私も驚いた。
お弁当にもT・P・Oというものがあることをこの時知ったのである。

後年になって、父を囲んで妹と3人で母のお弁当の暴露話に花を咲かせていたら、今度は妹が告白した。
彼女は几帳面な私とは正反対で何事にも大雑把な女である。
遠足があることもスッカリ忘れ、前日に思い出したように「明日遠足や!弁当頼むでえー!」などといつもこんな具合なのだ。
これではいくらお料理好きなセンスのいい母親だって、前日に突然、明日弁当頼むでぇーなぁーんて言われてもうろたえてしまう。
彼女は姉の私から見てもとてつもなくオモロイ女で、当然のことながら勉強は出来なかったがクラスの人気者だった。
彼女の回りには何時もとりまきがいたような存在だった。

遠足当日、やっぱりお弁当の時間はやってくる。
友達と輪になっていざ、お弁当を広げた彼女も案の定硬直状態に陥った。
あまりにも美しすぎてとっさに目と蓋を閉じてしまった。
そこに美しく広がっていたのは白いご飯が100%敷き詰められた上にまるでふりかけのようにふりかけられたミックス・ベジタブルだったのだ。
彼女とて豊田家の一員である。
母のセンスのなさを身を持って体験はしているので、彼女は母に「茶色の弁当は止めてや!色の奇麗な弁当にしてや!」と注文していたのだった。人参の赤、コーンの黄色、グリーンピースの緑、まるで信号である。
美しさからすれば百点満点だ。
だが、これに味がつけられているような高等な技は存在しない。
ただただご飯の上にふりかけられているだけである。
つまり100%の白ご飯におかずがふりかけのミックス・ベジタブルということである。
妹は心の中で「この野郎!ばか野郎!」と叫びながら蓋を閉じた。
さて、どうしたものか・・・・お腹はペコペコである。
お小遣いだってそんなに持ち合わせていないので、パン屋にも走れない。
ええい!しゃぁない!でもって、腹を決めねばならなかった。
再び蓋を開けたがやっぱり目に飛び込んできたのは幻ではなく、しっかり現実のミックス・ベジタブルだった。
輪になって楽しそうに美味しそうにメルヘン弁当を食べている友達達が一斉に妹の弁当に注目し、歓声を上げた。
「うわぁ!ミッチ(妹の愛称)のお弁当、き・れ・いぃー!」
彼女は恥ずかしさと腹立たしさと情けなさと悲しさの入り交じった複雑な心境で「実はなぁ、うちのお母さん、病気でな、これお父さんが作ってん!」などと大ボラを吹いてその場を切り抜けようとしたが、友達は尚も称賛を繰り返す。
「ミッチのお父さんってセンスあるぅー!」ときた。

彼女もこの時ばかりは人気者であるという自分の立場を放棄したかった。「そっと一人にしといてんか!」と、隅っこで一人静かにこのお弁当を食べたかったのだどういう配分で食べればこの広大なご飯とおかずのミックスベジタブルがまんべんなく食べ終わることが出来るのだろうかとひたすら考えながら、ミックスベジタブルを1つ1つ箸でつまんでいた。

三人が三様に母のお弁当には苦しめられた苦い過去を背負って生きてきた。
お蔭様で三人ともお料理が上手になった。

だが、ここで母の名誉挽回をしないといけない。
自分で台所を仕切るようになると、色取りがどーんと豊かになり西洋料理が断然主流になっていった。
西洋料理どころか自分自身がスコットランドの片田舎で暮らすようになった現在である。
何時の日からか私は運動と言う運動をしなくなってしまった。これには勿論思春期の受験勉強という切羽詰まった状況下に追い込まれたせいでもあるが、身体を動かすのは好きだがこれといったスポーツをするのがおっくうになった。
それに食べるものはこってり系で、栄養なんてことは二の次だった。
ところがスコットランドの片田舎ではいくら栄養栄養と叫んだところで日本人の感覚でおでんやひじきや煮豆や昆布や小魚、海藻なんて日本食料品は手に入らないときた。
ましてやパートで働く身分であった為、いつも冷凍庫から取り出してオーブンや電子レンジでチン!
たまの週末こそはシチューやカレーなどといったものをこしらえるという、食生活を繰り返していたのだった。
スコットランドの片田舎から首都のエジンバラに引越ししてからどうも身体の調子が悪くなってきて歳のせいかもしれないが、いろんなストレスが消化出来ず、ついには毎日が疲れて憂うつになってしまったのだ。
そこではたと気が付いたのが、食生活である。
今いろんな文献で自分の食生活にチェックを入れてみて初めていかに栄養が偏よっていて、バランスが失われているかに気が付いたのだ。
幸い、ここは首都であるので、中華食料品店に出向けば日本の食材も少ないながらに手に入る境遇に恵まれた。
母の茶色の献立がいかに大切なものかを見直した現在である。
茶色の献立がいかに身体のバランスをよくしているか、お陰で現在体調はすこぶるいい。
子供時代に(針こそ呑み込んでしまったが)恐ろしいくらいな健康体だったのは母のお陰である。
母に今更ながらに感謝する私である。
だが、私には見える。
目を吊り上げながら怖い顔をして母はこう言うのである。
「タバコ辞めなさい!」と。





山内君

昨日どーした訳か山内君の夢を見た。
どーしてこんな夢を見たんやろ?と首をかしげたくなるような何ぁーんにも関係も思い入れもない人が突然夢の中に出てくることって時々ある。
夢の中の山内君は小学校の1年生、2年生って感じで、丸丸太っていて、血色の良い男の子だった。
昔のまんまだ。
最も私はこの頃の彼しか知らないのだが・・・
そこには私も登場している。
どちらが前なのか後ろなのか判らないくらいに真っ黒に日焼けして、膝小僧をすりむいてかさぶたをこしらえて、こちらも健康体そのものだ。
私の子供時代は、普通の女の子が遊ぶようなおままごとやお人形さん遊びというしおらしく可愛いものとは無縁の世界で、木があれば登り、穴を見付ければ入る、池があればメダカやおたまじゃくしを掬ったり、室内でじぃーっとしているのが大の苦手で、いつも外で遊んでいた。完璧な体育会系アウトドア派であった。
いつから運動不足で蛍光燈の下で本を読んだり、手芸をしたりのインドア派に転向していったのか?
中学までは確実に体育会系アウトドア派だった。
高校に入り、1年生まではまだその状態であったのだが、受験勉強というものに取り組み初めて、おのずと体育会系のクラブを手放した。多分そこが分岐点だったのだろう。
アクティブな私はバンドを組んだ。ギターを鳴らし、声を張り上げて歌を歌う。
大学に入っても今度はロックバンドでドラムを叩いていた。
アクティブな世界ではあるが、やはりインドア文科系である。
それ以降、運動という運動は一切やっていない。唯一の運動といえば、自転車を漕ぐくらいのものだ。
であるからして、夢に出てきた真っ黒焦げの子供時代の私との再会には胸がときめいた。
眩しい程の元気で活発な女の子だったからだ。
おままごとやお人形遊びをする代わりに私は男の子達と泥んこ遊びや探検ごっこをしたものだ。
そしてその当時、○○ごっこにはまっていた。
鉄腕アトムごっごとかマグマ大使ごっことか、TVの人気者ごっこである。
この山内君とは○○ごっこをした間柄である。
○○ごっことは言っても間違ってもお医者さんごっこではない。
山内君は赤い風呂敷きをいつも首に巻き付けていた。
どでかい図体をゆさゆさと揺らしながら、ドテドテと走っている。
私は「あっ、何か聞こえるわ!」などとクソ真面目な顔をして、耳に手をあてている。
夢ながら、恥ずかしくてぶふっと吹いてしまいそうだ。
この2人がやっていたのはサイボーグ009ごっこだったのである。
アニメ王国であるニッポンの子供特有の遊びである。
今時の小学生の1年生、2年生あたりの子供がこんな遊びを真剣にやっているとは想像出来ない。
今はコンピューターやゲームが盛んで、それに塾にだって行かねばなるまい。
最近の子供はさぞかし忙しくて大変だなぁ。と、いつも思ってしまう。
あたりが暗くなるまで、宿題もしないで、赤い風呂敷きを巻き付けて走り回っている子供に、もうお目にかかれないという現実はちょいと寂しいものがある。

さて、サイボーグ009は素晴らしいアニメだった。
すっかりとりこになった二人はサイボーグ009ごっこをやろうと盛り上がった。
009というからには001から009までの9名が善玉として役にありつける。
あとは敵である。
ところがその時に応じて配役が入れ替わったり、敵が誰もいなかったりしてしまう。
誰だって敵になりたくないもんだから、日によって役者が出たり入ったりを繰り返すのだが、必ず毎回参加していたのがこの山内君と私だったのだ。
言い出しっぺの山内君が全権を握っていた。
故に配役はいつもいつも彼が決める。
何時も彼が決めるのであるからして、いくら太ってブヨヨンとしていても主人公の009は奴が取ってしまう。
美味しいところはいつも彼だった。
だからブヨブヨ太ってしまうのだ。
009は番組中でも主人公で、設定は日本人なのにやけに色が白く(ああ、今思い出した!彼は混血だったんだ!)
背も高く、ハンサムな元レーサーの島崎ジョーだった。
島崎ジョーは赤いマフラーをなびかせている。
誰が何処からどう見ても、赤いほっぺたのブヨブヨ太った山内君が島崎ジョーに見えるはずはない。
ましてやトレードマークの赤いマフラーを持っていなかったので、どこから調達してきたのか知らないが、赤い風呂敷きを首に巻き付けていた。
どっから見てもアホである。
私の演じるのは003だった。
003の設定はフランス人形のようなフランス人でこれが不思議と日本語を喋っていた。
このアニメはメンバーが世界各国の選りすぐりであるにも関わらず、全員が見事なまでに日本語を喋る。
不思議といえば不思議である。
003は元バレリーナで長いブロンドの髪。
フランス人形のように奇麗で、元バレリーナ。女の子だったら憧れないはずはない。
そして003はいつも赤ちゃんの001を抱いていた。
私は妹が嫌がって泣き叫ぶのを無視して、彼女の人形を取り上げ、その人形を抱きながら「あっ!何か聞こえる!」とご自慢の耳をピクピクさせる。
私はこれを遣りたいがために耳を動かす練習をしていた。
どこから見てもアホである。
こんなことをあたりが暗くなるまで遊び呆けるのである。
殆ど男の子達の世界だったので、女の子の私はいつも003になっていた。

ところが、ある日のことである。
この素晴らしいお遊びをどこで嗅ぎ付けてきたのか、山内君の前にクラスで一番賢くて美人でお金持ちの樫田さんが現れた。
私は何やら嫌な予感が走ったのだが、やはり予感は的中した。
山内君はまるで当然のことといったように003の役をこともあっさりと樫田さんに進呈するのだった。
私は硬直状態に落ち込んだ。
んな、殺生なぁー!今迄私はずっと003だったのである。
003は私がやらなくて誰がやるのだ!
ちょいと興味半分に遊びに来た彼女にあっさりと横取りされてしまうなんて!酷い!酷すぎる!
彼女は学校のクラスでもう充分に、日の当たる地位にいるではないか!
日陰の道を歩んでいた私にやっと訪れた日の当たる003だったのである。
そのうえに樫田さんは耳をピクピク動かすことも出来ないではないか!
私はこの役のために日夜練習を繰り返していたというのに・・・・
何て人生は無情なのだ。
幼くして私は世の中の上下関係を思いっきり認識するはめになる。
とかく世の中には不公平が存在する。
しかしどうあがいてもクラスで一番賢くて、美人で、お金持ちと3高を兼ね備えた樫田さんには逆立ちしたって、かないっこないのである。
私はこの時に「我慢」という二文字を覚えたような気がする。未だに我慢強い性格はここが原点だったのだろう。
格下げされた私の役は006だった。
006は設定が中国人でいつもフライパンを持っていて、中華料理を作っているのだが、いざ戦いが始まると彼は口から火を吹くのである。
これには参った。
耳ピクピクは練習で習得出来るものであるが、私は人間でドラゴンやゴジラではない。
練習を重ねようが口から火を吹くなんて芸当は、サーカスにでも入らない限り不可能だった。
仕方がないので、小道具で勝負するしかなかった。
私は台所からフライパンをくすねてきた。
台所からフライパンが消えた母が大騒ぎをしている中「あたいを怒らすと、こうなるあるよ!」と言いながら火を吹く真似をして、フライパンを振り回していた。
どっから見てもやっぱりアホである。
この006こそ、そのブヨブヨ太った体型といい、真っ赤なほっぺたといい山内君そのもののはまり役だったのに、彼はやっぱり赤い風呂敷きを首に巻いてただただ走っているだけのサイボーグ009だった。





吉田先生

一般的に学校で習う勉強については教科の好き嫌いが生じる。
それについては勿論先天的なものもあり、後天的なものもあるので一概には定義できないが、いろんな人に聞いてみると結構良く似た答えが戻ってくるものだ。
初めて教わった先生の授業がとっても面白く、教科自体も好きになっていくとか、とても美人な先生で目をかけて貰いたいが故、自然と勉強に力がこもったとか、ハンサムな先生だったから、その先生にド馬鹿だと思われたくなかったから猛勉強したとか、実に様々だ。
未だ成人としての自覚も無い、かといって子供でもない不安定な年頃だからしょうがない。
とにかく授業が楽しければ不思議とその教科も好きになってくる。
興味が出来れば勉強意欲が湧いてくる。当然意欲があると成績はアップする。
成績がアップするとこれまでにない優越感に浸ることが出来る。この優越感を維持したいが為に勉強する。
私は文科系の人間だ。だから国語や英語は好きだった。ところが理科系は全くお手上げ状態だった
なかで、物理は話にならない。この教科は最初の第一歩で意識不明になる。
ところが理数科でも化学になるとどうしたことか俄然眼が輝き出す。
それは高校時代の化学の先生がとっても面白可笑しい授業を展開してくれたからである。
必然的に物理が欠点ぎりぎりのボーダーラインで止まっていたにも関わらず、化学だけはずば抜けていい成績だった。

先天的には私の場合は英語だろう。
母が洋楽ファンでいつも洋楽がスピーカーから流れていたような環境で育ったせいでもあるし、ビートルズにはまって、毎日聞き込んでいたもんだから、自然と容易に英語という科目が受け入れられたのだろう。
初めて接した英語の先生も面白い先生だったし、勉強嫌いな私が味わった初めての優越感でもあった。
しかしこれと反対だったのが算数である。
私は幼稚園時代をあんまり覚えていない。というのも病院で過ごしていたからだ。
そのうえ小学校は合計5回も転校を重ねたので何が何やらわからないままに鶴亀算。
全くちんぷんかんぷんの世界だった。
小学校の基礎である「算数」を理解できぬまま、中学へ辿り着くとこの算数も「数学」という突如として実に学問的な呼び名となり、一線を置いてしまう雲の上の教科になったのである。
この数学嫌いの種をしっかり蒔いてくれたのが、吉田先生である。
彼女はまだ大学出たてのまだお尻の青い新米数学教師だった。
数学教師特有の頭がいいを鼻にかけたような美人だが面白味のないツンとすました先生だった。
同じ数学教師でも高校時代に巡り合った男性教師の小林先生とは雲泥の差であった。

ここで、一気に高校時代に話が飛ぶことをお許し願いたい。
まぁ、学校の校風やクラスの雰囲気によって違うのだが、私の属した高校のクラスは実に楽しいクラスだった。
現在に於いても2〜3年おきに欠かすことなく同窓会を開催している。
そしてこと「数学」の授業においてなど、笑い声が溢れかえる等ということは奇跡に等しいことではなかろうか。
普通、数学の授業というのはしんみり緊張しているはずである。
ところが小林先生の授業はいつも賑やかになる。
全く似合わないボータイをして小林先生は黒板を目一杯使って、手をチョークで真っ白にしながら「みんなぁ、わかったやろ?」
と言う。
みんなで合唱する。
「わっかれへーん!」
「何でや?何がわっかれへんねん?」と、再び説明を始める。この先生のいいところは誰にもあてないところである。
故に緊張感がない。
「どうや?これでわかったやろ?」
しかしはたまたみんなで「わっかれへーん!」
だいたい文科系のクラスで理数科を教え込むなんてことがそもそも間違っているのである。
理数科のクラスでなら通じる方程式もここ文科系のクラスになると解釈の仕方が違うのだ。
とことん「わっかれへーん」を押し通すことが出来る。
みんなが「わっかれへーん」攻撃をかますので、小林先生の授業はなかなか前に進まない。前に進まなければおのずとテストの出題範囲はグーンと狭くなる。
遥かに小林先生を上回る強さとジョークを秘めたクラスで実に悪知恵の働く連中が揃っていた。
試験前になると、この小林先生の後を銀バエのようにぶんぶんとつきまとう。
「なぁ、せんせー、どこでるのぉー?」「ねぇねぇ、せんせー」と、トイレにまでついていく。
あまりにもしつこくつきまとうので、堪り兼ねた小林先生もふと、「うーん。ここが出るかもしれへんなぁー」とか、「出る、出るかなぁ?」などとほのめかす。ここがミソなんである。
普段は何の感心の無い小林先生の言葉も試験前には誰も一言だって聞き漏らさない。
情報をキャッチした生徒は一人占めすることなく、この貴重な情報をクラス中に口外する。
当時独身だった小林先生が美人な国語教師に惚れていると噂が広まるとみんなでよってたかってやいのやいのと大人をからかって遊んでいた。
みんなで小林先生を小馬鹿にしまくっていた。
あまりにも小馬鹿にしていると突如として小林先生は真っ赤な顔をして怒り出すのだが、誰も怖がらない。
先生が怒ると「わぁ、怒ってるぅー」とみんなが笑う。
こんな数学があっていいのだろうか・・・・
しかし、難しいはずの数学に笑いながら取り組んだと言うのも珍しいし、このクラスの面白い雰囲気があったからこそ、私は大嫌いだった数学から徐々に面白味を見出したのである。
これは成績表に顕著に現れている。
中学で殆ど落第点だった数学が高校でぐーんと好成績になったのだ。

さて、横道にそれた中学時代に戻そう。
私の通った中学はニュータウン内に出来た新設校だった。
しかるに生徒数は極めて少なく、教師にとっては理想の場であり、生徒にとっては甚だ迷惑な場である。
何をやらかしてもとんでもなく目立ってしまうのだから、おちおち不良になっていられない。
雰囲気は真面目そのもの。
真面目がセーラー服を着込んでいる。真面目が詰め襟の坊主頭を着込んでいるような学校で実に世間の荒波から隔離されたような存在だった。
しかるにどんな授業も「わっかれへーん」などと言えるような雰囲気ではなかったし、判らない生徒は判らないまんまにどんどん進んでゆき、判らない所さえ判らない状態となってしまっていた。
この数学の吉田先生は私の生涯で一番嫌いな先生となる。
こちらが嫌いなのであるから向こうも私のことが嫌いだったに違いない。
その発端はある授業参観日に溯る。
大体この授業参観なんぞは一体誰が決めたのだろう?
あれは先生達の一種のショー・タイムではなかろうか?

当時の母は専業主婦だった。
暇を持て余していたのでPTAの役員に任命されてしまった。
母は顔こそは「いかりや長介」なのだが、教育者の元に生まれたいわゆるお嬢さん育ちである。
自分でせっせと洋裁をしていたので、回りの人達からセンスがいい(お弁当は別として)と誉められていたみたいで、いつも近所の人達からの注文を受けていた。
そんな母だから、ちょいとおめかしして出掛ける時なんぞはどでかい頭にちょこんと帽子なんぞまで被ってしまう。
彼女は家で鏡に向かってファッションショーをやっていた。
現在でも相当なおばぁちゃんであるにも関わらず、いつも小奇麗にしている。
化粧品を集めるのが好きだし、ありとあらゆる化粧品の善し悪しを知っている。
同じ親娘でも安い化粧品でパッパラパァーと5分もあれば完了する私の化粧とは大違いである。
そんな母であるから授業参観などとなると張り切らない訳はない。
「来なくていい!」といくら口を酸っぱくして言おうがやってくる。
何せPTAの役員でもあるし、自分の縫った服とコーディネイトされた帽子をかぶって公の場に出てこれるのだから・・・

さて、吉田先生の授業は実につまらなかった。
であるから真面目に時間中じぃーっとしているのが苦痛で苦痛でしかたない。
私は窓際に座った場合は外を眺め、雲の形が何に見えるだの、雲が変形していく様子を観察し、真ん中に座れば下を向いて漫画を描いたりする。
時計の近くに座れば、あと何分、あと何分で授業は終わるなどと「正チャンマーク」をつけてはあと正正正分などと時間を潰していた。
そんな折、授業参観がやってきた。
よりにもよって「数学」ときた。
来なくてもいい母は、やっぱりいそいそとやってきて、後ろの父兄の一群に加わった。
吉田先生はいつものようにつまらない授業を続けている。
何かしらん、今日の授業はいつもよりも随分とご丁寧である。
私は時計を眺めながらあと、5分というところまで辿り着いていた。
(早よう終わらんかいなぁ、今日の給食は何やろなぁ?ああ、早よう帰えりたいなぁ・・・)といつものように現実の世界から抜け出していた。
ところがふと顔をあげて、ここで絶対やってはいけないことをやってしまったのだ。
正ちゃんマークをつけて、ふと顔をあげて黒板を見る。何やら難しい数式が並んでいて、吉田先生が金魚の口のようにパクパクさせながら喋っている。
だが、このパクパク金魚の吉田先生と眼が合ってしまい、私はフンフンと判りもしないのに判ったふりの頷きをしてしまったのである。
あと、3分まで漕ぎついた。もうすぐベルが鳴る!心は躍る!もうすぐ給食や!
するとその時、幻想の世界を漂っている私の耳を誰かがぎぃーっと力強く引っ張って現実に連れ戻そうとしている。
吉田先生だった。
吉田先生のふいをついた突然の声が耳の中に飛び込んできたのだ。
「はい、豊田さん、答えて下さい!」
私は硬直状態に陥った。
最初っから何も聞いていなかったのだ。答えなんぞどこを探しても出てくるはずはない。
即座に私の空っぽであるはずの脳味噌でアドレナリンが多量に分泌する。
(今ここで、しなければならないことは・・・・)
1時をかける少女となって突如として消え失せる。
2貧血で倒れる。
3突然耳なし芳一となって、聞こえないふりをする。
4火事やぁ!と叫んで大騒ぎして逃げる。
5意識不明の重態になる。
6突然の記憶喪失に襲われる。
これだけの対処法がとっさに私の脳味噌を駆け巡る。
だが、どれもイマイチである。
何でや?いつもは「はい、判る人?手をあげて!」とくるはずやのに・・・何で今日に限って豊田さんやねん?
何でや?何で?私は悲しかった、逃げたかった。
だが、私の丈夫な鋼のような健康そのものの身体は突然の貧血も起こさなければ、意識不明の重体にはしてくれなかったのである。
私はぬぅーっと立ち上がり「わかりません」と答えた。
場がしらぁーっと白けていた。
「わかりません」は日常茶飯事で、こんなことは朝飯前である。
恥じというのには馴れている。
だが今日はいつもとは違うのだ。参観日なのである。
私は答えられなかったことよりも母に恥じをかかせてしまったという悲しさと恐ろしさで尚も硬直していた。
(今日は家には帰れない・・・・)
さてどうしたものか・・・・蒸発しようにも金がない。
今月のお小遣いはビートルズのLPを買ってしまったのですっからかんである。
私は学校が引けてもまっすぐには家には戻れず、公園であたりが暗くなるまでひたすら対策を練った。
「あの時、ものすごくしんどくて答えどころではなかった」とか「あの時おしこに行きたくってどうしようもなかった」とか、馬鹿馬鹿しい言い訳しか浮かばない。
あたりは真っ暗になってきた。もう限界である。
トボトボと家に戻るしかなかった。
とほほ・・。きっと玄関で母は仁王立ちして待っているはずだ。手には武器のものさしを持って・・・。
洋裁をやっていた母の武器はものさしだった。
子供の頃から悪さをするといつも決まってこのものさしが飛んできた。
ピシッ!ピタァーッ!と、こいつが痛い。
これで追いかけられるのだからたまらない。
体格が良くなった中学生となっても母のものさしには頭があがらなかった。
玄関のドアを開ける。あれぇ?仁王立ちの母はいない。ものさしもいない。
あれぇ?おかしいなぁ。部屋は暗い。
母は部屋を暗くして寝込んでいた。
私は恐ろしかった。ひたすら怖かった。
子供としてはこういう方が怖いのである。
「仁王立ちのものさし」の方が明るくていいのだ。
私は「どないしたん?しんどいのん?」と一声かけて、すたこらさっさと自分の部屋に入っていた。
しばらくすると、すぅーっと襖が開いて、母がオバケのようになって立っていた。
これは「仁王立ちものさし」よりも遥かに怖い恐怖映画だった。
硬直状態が私の身体を襲った。
(何か言い出すはずだ。お小遣い停止!塾へ連行する!お菓子の停止!いいいい、何でもしましょ!だが泣かれては困る)
オバケのように立っていた母は実にか細い声でこう言った。
「あんた、学校へ何しに行ってんのん?」と。
私はこの問いかけに即座に答えが浮かばなかった。
何しに行ってんのやろ?うーん。やっぱりこれしかない。
私は答えた。「給食食べに行ってんねん」

その日以来、母は授業参観と言う授業参観には出てこなくなった。
子供としては有難い。
それでも私は吉田先生を許す訳にはいかなかった。
だいたい授業参観なんていうものは先生にとっては自分の教育成果を父兄に見せ付け、自分の腕は確かなものだと強調する一種のショーである。
確実に答えられる生徒を指名して墓穴なんぞ掘らないもんだ。
吉田先生は相当なギャンブルに打って出たということになる。アホな先生だ。
とにかく私はずっとこの事を根に持ち続けながら生きてきたのだが、先だって母にあのときのことを覚えているか?と聞いてみると「そんなん、覚えてへんわぁー」と答えた。
私は母のその言葉でもって長年胸につかえていた吉田先生へ恨み節を時効にしてあげたのだった。





くりと大仏

奈良のお水取りも終え、苦しい受験勉強から開放され、さくらの花が咲き乱れる大学の門をくぐる。
普通ではこういきたいところだが、我母校の場合は、奈良のお水取りも終え、苦しい受験勉強から開放されさくらの花の咲き乱れる大学の地獄の階段を上り詰めると・・・という出だしとなる。
各学部の入学式も無事に終えた後はまず時間割を自分で制作せねばならない。
科目は一般教養と専門科目の2つに大別される。
専門科目は予め決められた曜日と時間設定がなされており、各学部によって自動的に既に最初から組み込まれている。
従って残りの歯抜けの空白部分に自分の気に入った一般教養科目を組み込んでいくことになる。
そしてこの一般教養科目の選択においては、2週間ほどのオリエンテーションと呼ばれる期間が準備され、学生たちはこの期間内に所謂公開授業を覗いて体験し、内容を確かめた後、最終決定を下し、ようやく自分自身の時間割が完成する仕組みになっていた。
しかるに当然その一般教養科目においては人気の授業、不人気の授業と別れるのである。
この人気授業にもこれまた2つに別れていて、1つはその授業がユニークでまるで漫談を聞いているような教授の授業である。
勿論TVや雑誌などでちょいちょい顔を出している或る程度知名度のあるタレント性に富んだ教授が教鞭をとっている訳だ。
そしてもう1つは、授業はつまんないし、何の興味もない。又何をやっているのかすらわからないが、どーしてこの教授の授業に
人気が出るのかと言えば簡単明快な答えが、ただ単に試験があまい。単位が取り易い。出欠をとらない。というやつなのである。
そもそも一般教養は4年間中の卒業までに単位を獲得すればいいのであるが、出来れば1年2年で頑張って獲れるだけのものを取ってしまって、あとの3年4年は卒論の為に専門科目に集中する。(3年4年で思い存分遊ぶ!)という考えの者が圧倒的に多い。
だが、一般教養とは言えどもあなどれない。
成績が悪ければしっかり落とされる。
つまり一般教養科目は全学部、全学年が対象になるのであるから、人気の授業になると大教室が満員御礼で溢れかえり、立ち見の学生が出るまでになる。
だがこれはオリエンテーション期間中のみで、本格的に授業が始まると、1週目2週目、3週目と出席するその学生の数はどんどんと下降線を描いてゆく。
人気教授になるためには「試験が甘い」「出欠をとらない」「試験無しのレポートのみなら尚最高」などという条件が揃えば、あなただって教授になれますよ。と言いたい。
人気があがってしまうと、何百名もの学生が登録しているのだから、教授はいちいち試験や答案用紙にかまってなんぞいられない。
助教授だって忙しいし、となれば採点は助手やアルバイト弟子の手に委ねられる。
ああ、そんなものも邪魔臭いとなったら、ええい!レポートのみ!ということになる。
そうなるとしめたもんである。
形だけでも提出さえしていれば内容がどんなアホウなものでも「落ちる」という事態にはならないからである。
だが、これにも数に限りがある。
あって1つか2つぐらいなものだ。
その上にこういう「レポートのみ」という授業を取りたくても曜日が専門科目と重なれば次期年度まで涙を飲まねばならない。
そしてあまり舐めてかかっても落とし穴に会うことがたまにある。
ある日突然、抜打ち出欠を取ったりなんぞするのである。
教授もアホではない。考えている。
油断大敵な奴もなかにはいたもんだった。

さて、入学したての右も左も判らないピカピカの1年生にはどれをとればいいのかなんてわかるはずもない。
だが、ここでクラブなんかに属してしまうと、それはそれは耳寄りな情報が諸先輩達から伝授されることになる。
しかも運良くいけば教科書のお下がりまで頂戴できるのだ。
後はその同じ授業を取る仲間を見付けだし、事前に「氏名」「学部」「学生番号」なんぞを書いたメモを手渡しておく。
真面目な学生に2枚の出欠カードを取ってもらい、記入を頼むというしかけである。
これで1年間その授業には試験まで出る必要はない。
勿論それなりの報酬は不可欠ではあるが・・・・。
そうして学期末を迎えるのであった。
試験に関しては本人が学生証を提示しなければならないので、他人に託す訳にはいかなかった。
不正行為を無くす為に大学も考えている。
人気教授の採点は甘い、その上に試験の1週間前には必ず出題しそうな項目を匂わせてくれる。
学生の方は先輩たちからの前年度、前々年度出題のデータをもとに、ヤマを張って試験に臨むのである。
そんなことなので、試験日当日になって初めて「へぇー、こんなせんせいだったのねっ!」と感心する学生もチラホラ。
かくゆう私もそういう学生の一人だった。

試験前ともなると構内の喫茶室、学生食堂などは真面目な学生や要領よく授業ノートを入手した者とおさぼり学生との間での商談の窓口と化してしまう。
まぁ何かにつけ交換条件の世の中である。
学生という立場上、この交換条件も賄賂と言う金銭ではなく至って可愛いものだ。
学食のBランチを奢るから見せてぇ。ってな具合である。
しかしノートの質と量によってはこれがBランチからAランチ、時にはスペシャルランチへと格上げになったりする。
変動相場というやつである。
貸し出す方も段々賢くなって、欲の皮の突っ張った奴になると、Bランチごときでは納得しない。
学食のSランチに喫茶室のサンドイッチセットというフルコースを要求したりする。
もっと酷くなると学食のは不味いからと、学内ではもの足らずに校外の喫茶店のピラフセットだとか、王将のぎょうざセット、天下一のラーメンとかいったような様々なパターンが存在した。

私も何やらの対策を講じて試験前に至った。
人気教授の「民族と文化」を取っていた。
単位獲得に向けて一夜にしてヤマを張ったのである。
試験当日、余り馴染みのない大教室へ入っていく。
「ふぅーん。こんなところでやってたのねん。へぇー、こんな先生やったんか。」等と思いながら席に座り、試験問題が配られるのを待っていた。
問題用紙と解答用紙の2枚が配られ、用意スタート!
問題用紙に目を落とした私の目は少女漫画に出てくるメルヘン主人公のようにキラキラのハート印になっていた。
「山勘大当たり!出てる!出てる!」
私のヤマはお見事に適中した。
顔はにんまり、足はルンルン、心は踊っていた。
これでこの単位もらったぁ!という満足の極みである。
「民族と文化」。名の通り地理であり、何やら聞いたこともないような地域の、そしてそこで暮らす民族達の生活についての問題だった。
丸暗記方式の通用する論述形式のものは私の最も得意とする分野であった。
そしてこの問題は「○○部族の地域、生態、産物、生計手段などを詳しく論述せよ」というものだった。
この試験、いただきねっ!とばかりに私のペンは滑らかに解答用紙の上を走っている。
一番山場となる重要なポイントにさしかかった。
「栗の栽培が彼等にとっての唯一の生計、収入源・・・」ってなところで全角で書いていた私のペンが止まった。
待て!ここが一番のポイントなんや!インパクトがいる。インパクトが!とペンは囁いた。
そこでもっとインパクトをということで、漢字で書いていた「栗」の字をひらがなに直し、おまけに3倍角に広げて大きく「くりの栽培が・・・」という具合に書き直した。
しかし、ペンはもっと!もっと!と要求する。
そこで私はご丁寧にくりと書かれたその横にこれまた大きく栗のイラストまで挿入したのだった。
「こいつはウケるぞ!」とばかりに私のペンはようやく納得したみたいだった。
制限時間が終わり、私はとても満足げに教室を出た。
友達に出会い、この試験の祝杯をあげようと歩み寄っていく。
私は満面の微笑みをあたり一面にこぼしながら言った。
「出たなぁ!出たやんか!栗の栽培!」と・・・・友達は一瞬「へ?」という文字の目を私に向ける。
きょとんとした顔に向かって私は再度叫んだ。
「出たなぁ、栗の栽培!出ると思っててん!」
二人の友は今度は後ずさりする。
(さては、あんたたちぃーヤマ外したんかぁ?)
「くりやで!くり、くり!」
自身たっぷりに鼻の穴を広げていた。
すると一人が申し分けなさそうに私の肩に手を乗せて「あれ、あわやでぇ」なんてことを言う。
今にも二人とも逃げ出しそうな構えでいる。
別の一人も駄目押しを入れる。
「あんた、天津甘栗ちゃうねんで!」
私はこの時ですら、状況を飲み込めずにいた。
ひらがなで入ってくる「あわ」にはピンとこないが、漢字に直してみると「粟」となる。
ひらがな、あわ。漢字、粟。ひらがな、くり。漢字、栗。
徐々に全宇宙がひっくり返ったような鋭い硬直状態に陥った。
そもそも突貫工事で慌ただしく頭にインプットしたのである。教科書もじっくり読むこともせず、ましてや私はド近眼。
「粟」という字を「栗」と見間違え、そのままくりくりと入っていってしまったのだ。
何たるトンチンカン。ドあほこの上ないではないか。
丸暗記主義の私は考えながら暗記した試しなど殆どない。
どう考えてみても「栗」などで生計を立てている部族なんているだろうか?
「天津甘栗」やあるまいし。友の言う通りである。
冷静に考えればわかりそうなものだ。
何という失敗。
こともあろうに私のペンは一際目立つように漢字からひらがなに直してしまったし、しかも3倍角に広げてしまった。
これがもし、小さく漢字で書いていれば、ゴマカシが効いて採点者も見逃す可能性は十分にあったはずである。
それとも「今時の学生は漢字もロクに書けぬのかっ!」と言いながらも三角をつけてくれるかもしれない。
ああ、それなのに、それなのに!
私はひらがなの3倍角、極めつけが栗のイラストである。
未だかつてこんなド馬鹿な答案を書いた学生がいただろうか?
採点者がジョークの通じる、「本当はこの学生は粟である事を知っているのだが、ジョークで栗にした」などと深かぁーく読み取ってくれるほどの器量の持ち主であるとか、異常な程に機嫌がいいとか・・・・。
想像を巡らしてみたが、やっぱりイマイチである。
単位獲得は諦めたのは言うまでもない。
「来年、又チャレンジしよう!今度はあわと大きく3倍角だ!」明日があるさ!とトボトボと坂道を下っていった。

時期を同じくして、今度は「自然科学」の試験がやってきた。
この授業についても一年間の間、1度か2度程顔を出した程度である。
しかしこの授業では前期でレポートの提出が科せられていて、課題の釣り鐘において、奈良の吉野村まで足を運んで
その寺にまつわる釣り鐘の由来から写真から、誰にも真似することの出来ない独自のオリジナルを作り上げて提出してあったので、いささか気分は楽であった。
試験は事前に3つのヤマが流行っていて、ちまたでは「大仏の作り方」がダントツで出題されるという噂が広がっていた。
当然の如く、私はまたまた丸暗記で「奈良の大仏の作り方・完全レシピー」をしっかりと頭に叩き込んで、試験に赴いた。
こんなこと勉強して将来何の役に立つのだろうか?私は大仏職人になるつもりなど毛頭無いのに・・・とは思いながら・・・
問題用紙と対面する時、これは学生にとっては殆どギャンブルに近い感覚である。
ヤマが当たった者はその場で「バンザーイ!」などと両手を上げて叫ぶのだが、外れた者はがっくりと肩が床にまで沈んでいく。
後方の席に座るとこの2者の対照的な光景を目にすることが出来るから面白い。
この日の私はまさしく後者であった。
問題用紙に目を落とした途端に硬直状態は訪れた。
「鉄砲の作り方を論述せよ」たった1問だけの質問だった。
(だっだっ誰やぁ!大仏が出るっちゅうたんわぁ!)むかむかとムカついた。
放棄して白紙の答案を出すのも癪に障るし、テストの開始後は1時間が経過しなければ退出が認められない。
ここでふと、先輩たちからの助言がこだました。「何でもええから、書け!白紙で出すな!」と。
血迷った学生はここで、カレーライスとライスカレーの相違について論述したり、ちょいとばかりに凝ってみて酢豚の作り方を述べてみたり、1時間内を退屈せずに答案用紙を埋め尽くしていくといった話は耳にしたことがある。
そこで、よぉし、私は何のレシピーをご披露しようかな?と考えた。
ぎょうざ?春巻き?中華の得意だった私はこの路線で攻め込もうかと考えたが、ふと気がついた。
「奈良の大仏の作り方」を私は昨夜殆ど徹夜で叩き込んできたのである。
勿論試験が終われば、こんなレシピーは将来何を間違って大仏職人になってしまったということが起こらない限り役には立たないものである。
ここはこの大作を是非ともご披露しなければものすごく勿体無くてバチが当たりそうである。
ぎょうざや春巻きはいつでも論述可能だが、大仏は今この時を無くして何時論じることができるだろうか?
私は大博打に賭けてみた。
ここはどうあがいてみても「鉄砲」を論じることは不可能だ。正直に謝るしか他あるまい。
私は文頭に教授に対してのお詫びのメッセージを書き始めた。
「○○教授殿、申し訳有りません。私のヤマは大きく外れてしまいました。しかし私が自然科学をことのほか愛する気持ちは不滅です。あの前期でのレポートである釣り鐘の探求はそれはそれは素晴らしい体験でした。釣り鐘の美しさは鉄砲の美しさとは比較にならぬほど大仏と似通ったものを痛切に感じない訳にはまいりません。是非とも今回の試験はこの美しさの相似性を持った大仏についての問題であって欲しかった。鉄砲も美しいかもしれません。しかし大仏は世界の大仏です。
ポルトガルに鉄砲はあっても大仏はないのです。私はこの場で立ち去る訳にはまいりません。大仏を論述するまでは。どうかこの私の我が侭をお許し下さい」
自分でも半分ヤケクソ気味のプロローグを書き込んで、B4サイズたっぷりの答案用紙を両面にまたがって、丸暗記のすべてをきっちり丁寧にぶちまけた。
最後に残った余白には例の如く、大仏のイラストまで添えて締めくくった。
頭のイボイボ一つ一つにもたっぷりと愛情を込めて、美しい丸いラインで大仏に対する尊敬の心をイラストに投入していった。
我ながら惚れ惚れする程美しい、奈良の大仏絵巻きで、正倉院に奉りたいほどの快心の出来栄えだった。
答案用紙を埋め尽くした私は単位こそは諦めてしまったけれども、何ともいえない満足感と充実感に酔っていた。
教室を出ると学生たちは口々に叫んでいた。
「誰やぁ!大仏が出る言うたんわー!!!」
友達も総倒れだったようだ。
だが、何故か知らんニコニコにやついている私を見て、「鉄砲張ってたんやろ?」
「いいや!大仏や!」
「余裕の顔してるやん?」
「しゃぁーないやん。外れたもんは・・・そやしあたし、大仏書いてやったわ」
友は一言「あんたって怖い」とそう言った。

「くり」にしろ「大仏」にしろ、来年度はちょいとしんどくなるなぁ。と頭を抱えた。
試験が終わって学校が休みになるとそんなことはすっかりぽっかり忘れてバンドの練習に打ち込んでいた。
合宿に行って大騒ぎをし、バイトにもせっせと励んでいた。
4月になり、恐怖のコンピューター打ちの成績表を取りに学生課事務室に入っていく。
成績表を開いてみて仰け反りかえり、硬直状態を迎えた。
だが、嬉しい硬直状態だった。
「くり」と「大仏」は当選していた。
単位はしっかり取れていた。
中庭に躍り出た私は祝宴の雄たけびを上げていた。
卒業してもうウン十年になる。
まさかこの両教授が在籍されているとは到底思えないが、しかし私は後輩たちに言いたい。
「何か書け!白紙では出すな!」と。





伊集院隼人

前回で試験についての話をしたが、もう一つ試験のお話にお付き合い願いたい。
前述した一般教養では案外気楽に且つ適当に試験を乗り切ることが出来た。
だがしかし、こと専門教科ともなればそうはいかない。
イラストを描いてウケなんぞを狙うとか、おちゃめなアホをさらしても一切受け付けられない。
特に私の所属する外国語学部においては他の学部とは違って少人数制で、しかも毎回出欠を取るのだから、どうあがいてみても専門教科だけは、授業中眠っていようが、だべっていようが、漫画を描いていようが、1時間半もの長丁場をじっと堪え忍んで座っていなければならない。
年間トータルで7時間までは欠席が許される。しかしこれ以上休むと「留年」という厳しい処分が待ち構えている。
そして我大学の外語学部は2年から3年への進級が実に厳しいとのことだった。
一般教養はたとえ落としたとしても4年間のうちに獲得すればいいので挽回がきくが、専門教科となると3科目以上落第点を頂くと容赦なく留年という処置が施される。
そんなことは重々承知しながらもボーダーラインぎりぎりの7回まで授業をサボって、もう後のない崖っぷちに追い込まれながら、学期末の試験を目前に控えたのだった。
さて、どこのクラスにおいても「ガリ勉組」「普通の子」「おサボり組」の3つのタイプに不思議と識別される。
高校時代は普通の子に属していた私であったのが、大学に入学しバイトとクラブに青春を謳歌し始めたの契機に、一気に「おサボり組」へとまっさかさまに転落していった。

この私のクラスの中に、一番のガリ勉、勿論クラスでトップの西村女史の姿があった。
化粧や装飾品など一切身にまとわりつけない、服装極めて質素倹約、殆ど「六法全書」が似合いそうなガリ・ベンコである。
勿論勉強の出来る女史は諸先生方のお気に入りで、行く末は助手として自分の手元にはべられて置きたいタイプの女であった。
私としてはこういうタイプの女は大の苦手である。
何度と無く授業前にトイレでポワワァーンとタバコをふかしていた私の横をモロに嫌な顔をしながら大袈裟に「ごほん!ごほん!」と通り過ぎて行ったことがある。
実にいけすかないやな女である。
勉強が趣味なのである。私とは全く人種が違っていた。
クラス内においても殆ど会話を交したことすらなかったのだ。
しかしこんな嫌な女でも試験の前になると人気がうなぎ上りに急上昇していく。
私の所属する「おサボり組」は、女を追いかけるのに忙しい者、男に貢ぐのに忙しい者、体育会系で練習に忙しい者、バイトで忙しい者、何ぁーんとなく勉強が嫌いな者達などというほぼ8名のメンバーで構成されていた。
普段はバラバラなのだが、人間味の溢れるいい奴ばかりだった。
試験前ともなると俄然団結力が固まって「みんなで一緒に進級しよう!」と盛り上がる。
落ちこぼれ特有の友情は固く、決して友を置き去りにしなかった。
誰かが落第線すれすれで欠席状態が続けば心配になり電話をかけて、学校へ来るように励ましたり、どこかからノートを調達しようと実に麗しい友情をかもし出す。
ただし、試験が終わればまたバラバラに散っていくのだ。つまり普段は殆ど付き合いはないが、試験前だけに十年来の友達の如くしっかりと結びつく、妙なグループだった。

さて、その中に一人実に美形の男、伊集院隼人がいた。
すらりとしなやかに背が高く、足も勿論長い。色もこんがり美味しそうなクッキーのように焼けている。
髪は男にしておくのは勿体無い位に繊細で細い艶のある髪をサーファーカットにし、風の揺れるがままに任せていた。
まぁ、一言でいうならば、少女漫画に登場してくる主人公が恋焦がれるハンサムな兄ちゃんで、中高生の夢見るメルヘン少女たちにウケる顔立ちであった。
彼をそのまま切り取って少女漫画に貼り付ければ、十分活躍出来そうだ。
彼の美しさは、頭の悪さを充分カバーリングしていた。
美形は得である。こんな奴でもシェイクスピア本なんぞを持たせても充分サマになるのだから・・・

試験が迫った5日前、おサボり組は3人で構内の喫茶室で作戦会議を催していた。
とにかく煮詰まった結論というのは、どんなにいけすかない女であっても、我々が無事に進級に漕ぎつくためにはどうしても西村女史のノートが必要である。というものだった。
勿論彼女には何の魅力もなければ、お友達になりたいとも思わない。
しかし事は急を有していた。
真面目に小奇麗に書き詰められた西村女史のノート無くして、我々の3年生は成り立たない。
だが、この後に及んで「西村さぁーん、今夜家でご飯食べてかなぁーい?」「ねぇコーヒーでも飲みにいかなぁーい?」等と白々しく見え透いた演技など出来る私ではなかった。
私は重たい腰をよいしょっと上げて「単刀直入って奴で、交渉してくるわ!」と西村女史を探しに出掛ける。
4時間目に授業があるのだ。あの女はサボって帰るはずはない。この学校のどこかに潜んでいるはずだ。
だいたいこのテの女の行きそうな場所は見当がついた。
西村女史は案の定、外国語館の図書室で一人で静かに勉強をされていた。
(へっ、図書室ってこんなところにあったんや)と、2年生も終わりに近づいた頃になって初めて私は外語学部の図書室へと入っていった。
背を丸めてひたすらブツクサ言いながら、ページをめくっている西村女史の隣の椅子に座り「勉強してるんやぁ、ごめんねぇ。邪魔しちゃってぇ」と言う。
女史は私をチラリと見て、再び頭を下ろしノートに集中していた。
「うーん。構わないけどぉ。何かご用?」と低い声で答える。
「実はぁ、今度の試験の授業のノートと訳、貸して貰われへん?今すぐコピーして4時間目の授業の時にちゃんと返せるようにするし・・・頼むわぁ」と言いながら両手を合わせると、西村女史は深々と下げていた頭を上げ、ふぅーと深呼吸した。
シャープペンを置いたかと思うと冷たい突き刺さるような視線を投げかけながら、低く唸るように囁いた。
「甘いんちゃう?」と。
「ええっ?何ぁに?」
彼女は大きなため息をついて再び私にこう言った。
「それって、甘いんちゃう?」
私はすかさず、硬直状態となった。
「翻訳って、私が自分の言葉で作り上げたもんなんよ。そんなの渡してもどうせあなたのことだからそのまま書いちゃうんでしょ?」
「いや!そんなことぐらいアホな私でもわかってるよ。言葉は変えるやん!」
「それ以前の問題やわっ!私はね、毎日ちゃーんと授業に出てノートをとっているのよ。あなたはロクすっぽ授業にも出てこないで、出て来たところでノート一つとってなかったなんて、何やってたん?テスト前に私のノートを借りてええ点取ろうなんて、甘いんちゃう?」
私は言い返す言葉など出てくるはずはなかった。
彼女の言ってることはドえらく正しい。
そんな事は重々に判っている。しかしそこまで言うかっ!
最後に西村女史は、意地悪な微笑みを浮かべながら言う。
「今からでも間に合うよ。ヤル気があればね。そして判らないところが出てきたら、その時には教えてあげるわ。頑張りね!豊田さん!」
私は尚も硬直化して、固まっていた。
気がつくと両手の拳がワナワナと震えている。
一触即発状態だったが、ここは神聖なる図書室である。
乱闘騒ぎで退学するのも馬鹿らしい。ぐっと握った拳の力をだらぁーんと抜いて、やり場のなりその手を頭に載せて、自分の頭をボリボリ掻いた。
「あ、は、は、そーやなぁ。ほんまやほんま。そのとおりやなぁ。ごめんねぇ、勉強の邪魔してぇ。」私は頭を掻きながら図書室を後にした。
(今から間に合う位なら、誰もお前んとこには頭を下げにはいかんわい!くっそぉ!今に見てろ!いつかあたいがあんたのその地位を奪い取ってやるからなっ!覚えてろっ!)
腹の底では水気の無くなったやかんのようにグツグツ踊り、鼻の中の鼻毛という鼻毛が焼け焦げついたようだった。
力強いステップで廊下を歩くのだが、顔は殆ど半泣き状態で、馬鹿の溜まり場の喫茶室へと戻っていく。
仲間の顔を見るなり、一粒の涙が頬を伝っていた。
「ど、ど、どぉーしたんや?」と皆が驚く。
かくかくしかじかで、ノート獲得に失敗したことを告げる。落胆のため息があたりをさ迷う。
悔しくて悔しくてたまらなかった。
しかし、こんなことでめげる私ではない。
何とか方法を講じなければならない。時間は切迫しているのだ。
「よぉし、女のあたしがあかんかってん。今度はほれ!武田、あんたの番やで!行って来ぉい!」と、武田君に頼みの綱をバトンタッチ。
だが、普通の男である武田君もやや柔らかい口調でもって、無残にも敗退して戻ってきた。
西村女史は「あら、武田君、実は私もね、今回のテストの章は全然自信がないの。だからごめんね。悪いけどノートは貸せないわっ!」ときたもんだ。
男が頼むと「ごめんね」」と「悪いんだけど」がつくのである。やな女である。
もう諦めるしかないのかぁ・・・。途方に暮れながらも、こうなれば今晩から徹夜で翻訳を開始して三分の一程度は出来るかもしんない。きついよなぁ。
昼食を食べよう、腹が減っては戦は出来んと、とぼとぼ学食へ向かう途中、突然私の頭にある考えが閃いた。うーん。これはいけるかもしんねぇ。
私は走った、走った。構内の学食という学食、喫茶室という喫茶室を探し回り、とうとうちゃらちゃらケバケバの女達をはべらせて
にんまりとスケベ顔をしながら、どうせロクな話もしているはずもない伊集院隼人の姿を捕らえたのだった。
私はこの世の一大事とばかりに、目を血走らせながら、つかつかと伊集院の前に歩み寄り、彼の前に仁王立ちして言うのだった。
「伊集院!話がある!緊急事態発生やで!」
「どどどどっどーしたん?」と、つぶらな瞳をぱちくりさせて、ソフトな口調で話す彼は美しかった。
このただ事ならぬ緊迫した雰囲気に馴染めないちゃらちゃらケバケバの女共は「それじゃぁ、伊集院くーん、又明日ねぇ!」とクモの子を散らすように退散していく。
私はその後ろ姿を眺めながら(あんた達、伊集院の馬鹿が感染しても知らねぇよ!)と、心の中で笑い転げた。
伊集院隼人の前にどっかと腰を降ろし、開口一番。

「あんた、もうちいとまともな女共と付き合ったらどうやねん?」
「ほっといてくれ!お前にはカンケーない!」
「あたしがもっとええ女紹介したろ!」
「ええ?どこどこ?」
「あーんな脳味噌空っぽの連中とは違って、脳味噌ぎっしり詰まった女や!」
「どこどこ?」
「西村女史が図書館にいる」
「おい!何を言い出すねん?何を企んどるねん?」
「話は長くなる。とにかく今度の水曜日の試験の訳とノート、持ってるんか?」
「いいや、持ってへん。武田にでも借りようと思ってたけど・・・?」
「あほう!全くのんびりした奴っちゃ!全滅や!武田もあたしも藤井も駄目やった」
「うっそ・・・」
「ここからが、あんたの出番ねっ!あんたが西村女史をおびき出す。4時間目が終わったらVANVANのチーズケーキで誘うんや。ノートと訳本を借りて、あの女の前でコピーする。すぐに返せば女も納得するやろ。くれぐれも言っとくが、僕ちゃんだけ・・・絶対にこのコピーが8名に回るなんてことを匂わせてはいかん!とにかくコピーを入手したらええんや。今夜は遅くなるぞ!お母ちゃんに電話入れといた方がええぞ。それとも彼女か?まぁそんなことどーでもええ。」

私の早口口調に、美しい目が真ん丸となっている伊集院隼人だった。
「おいおい、何で俺が西村さんとデートせなあかんねん?俺にだって選ぶ権利というもんがある!」
「だから、あんたはアホやっちゅうねん。ノート、ノート、ノートの為やんかい!みんなの進級の為やんかい!
皆が絶滅の危機に瀕しているんやで。ちいとは世の為、人の為に人助けしたらどないやねん?ちゃらちゃらへらへらしているだけが男やないでぇ!ちいとは男らしい所見せてみぃ!」と私は喝を入れる。
すると伊集院も男でござるとばかりに凛々しく立ち上がり、「俺に任せとけ」と言いながら美しく去っていった。
うーん。後ろ姿はまさに少女漫画やねぇ。と思いきや、何を思ったのか彼はUターンをして、戻ってくる。
コーヒーをすすっている私の前に、仁王立ちしながらこう言った。
「俺、金もってへん。VANVANのチーズケーキ・セットの金おくれ!」と、おねだりする彼の顔はアホそのものなのだが、やはり美しかった。
このおねだり顔で迫ってこられると、さすがの西村女史と言えども嫌とは言えまい。
私はしぶしぶチーズケーキ・セットの代金を彼に手渡し、美しい後ろ姿に敬礼をしながら見送った。
彼等のVANVANでのデートがどんなものだったかは判らないし、また興味も無かったが、4時間目の終了後に伊集院は西村女史を連れ出して喫茶店に入るのを確認した。さすが伊集院だ。
私はひとまず下宿へと戻り、伊集院からの電話をひたすら祈るような思いで待っていた。
なかなか電話はかかってこなかった。
さてはあのヤロー、我々を裏切ったのか!はたまた彼までノックアウトを食らったか?じりじりと時間が過ぎる。
7時を過ぎてようやく伊集院からの電話を取った。
「ああ、俺、伊集院、今上賀茂神社や。入手したぞ!」
「あんた、遅かったやないの!さてはええことしてたんちゃうのん?ホレたの?西村女史に?」
「お前なぁ、そんなこと言うのん?西村さん、あの後一緒に帰ろうっちゅうて言い出して、結局四条河原町まで出て何とか巻いて引き返して来たんやぞぉー!。寒い、俺は今、寒い。凍え死なんうちに来てくれ!」
「よっしゃ!でかしたでかした!5分、5分で行くから死んだらあかんで!」
電話を切って、私は底冷えのする上賀茂神社へとまっしぐらに走った。

西村女史も所詮女だったのである。
伊集院ほどの美形から誘われて断る女など、なかなかいるはずはない。
まんまと計画通りにコピーは入手出来た。
これで何とか3年生になれる。
それにしてもの西村女史である。
こういう女は許せない。いつかこの女の鼻をブタの鼻にしてやるぞ!と心の中で誓った。

上賀茂神社で震えながら待っていた伊集院は後光が差すほど美しかった。
私はこの時思った。
こいつは将来、神からの賜わりものの美形でもって世の中を上手く渡っていくだろうと。
「よくやったぁ!伊集院!あんたは最高!」と、よしよしよしよし!と嫌がる伊集院を抱きしめ、頭をなでなでしてやった。
「寒かったやろ?ご褒美は何がええ?そうや、チューしたろか?」と言うと、伊集院は身を縮小させ、硬直状態になりながら、「い・ら・ん」と小さくつぶやくのだった。
「おお、言ってくれるやないの?」
「お前のアホ移りたくないもん」
「どっちがアホやねん?」
二人はジャレあいながら、仲良くあとの仲間の分のコピーを撮りに夜の町を走ったのであった。
話によるとVANVANで伊集院は西村女史にこう切り出したそうだ。
「西村さんはいつも賢くて、俺の尊敬する人やねん。俺は君のように字が奇麗やないし、第三章のノートがぐちゃぐちゃで自分でも読まれへんねん。だからノートを少しだけコピーさせてくれへんかなぁ?」
すると彼女はこう言ったそうな。
「あの章は誰だって難しいところよね。でも私の訳でよければ、伊集院君の役に立ってくれるのなら私も嬉しいし・・・」などと、伊集院が第三章と控えめにお願いしたにも関わらず、ノートと訳文の全てを彼に手渡したのである。
「甘いんちゃう?伊集院くーん?」など、なかったのである。
男の美形。これぞまさしく武器である。
おサボり組全員のコピーを撮り終え、私達は夜のロマンチック鴨川街道を震えながら歩いた。
長く疲れた1日だった。
ところが何を血迷ったのか、伊集院が突如として月光の光の下で狼になった。
少女漫画の主人公の様な真顔となり、「おい、チューしてもええぞ!」と顔を近づけてくるのだ。
「何を言い出すねん!」腰が抜けそうに驚きまくった。
「チューしたろかって上賀茂神社で言うたやないか!」奴は真顔で追いかけてくる。
「いらんって言うたやないか!」
私は一目散に逃げた。
このド馬鹿の姿を奴の取り巻き連中に見せてやりたかった。
少女漫画の美しい主人公もただのすけべなおっさんに変身していた。

かくして私達おさぼり組は一人として落伍者を出さずに、この美形の伊集院の功績によって3年生となったのである。
 西村女史への執念に近い復讐は1年後の3年の学期末だった。
3年生の1年間はただただ西村女史への復讐心で、自分でも信じられないほどの猛勉強をやってのけた。
そして吉良コウヅケノスケである「西村コウズケノスケ」を大石豊田は、彼女が2年間守り続けたトップの座から引きずり降ろしたのである。
あの時、素直にノートを快く渡していれば、彼女の地位を脅かすなどという大胆なことはしなかったはずなのに、馬鹿な女である。
だがその後、伊集院は西村女史からつきまとわれ、私は伊集院からつきまとわれるという実に奇妙な三角関係となってしまったのだ。
伊集院に対するご褒美の「チュー」は、勘弁してもらったが、奴の大好きなジャズ喫茶にはちょいちょい連れ出されるはめとなる。
そして一体どこから手に入れたのか、我クラブの定期コンサートの時には一番前の席を陣取る伊集院の姿をステージの上から捕らえた時の私は硬直状態となってしまった。





候先生

私の専門は中国語である。
先生の一人は遥か上海からやってきた候先生である。
前年度は北京からの孫先生により流れるような北京語の発音に慣れ親しんだ私達は、この上海弁を話す候先生からは最初のうち、ことごとく嫌われていた。
中国人にとって「北京」と「上海」は、日本で言うところの「東京」と「大阪」に値する敵対心バリバリの関係にある。
何度も何度も注意され、北京語を馬鹿にし、私達を上海民族に仕立て上げようとやっきになっておられた。
こういうのは学生にとって甚だ迷惑な話である。
「プーハオ!(不好!)よくない!だめ!」と、いつもいつも怖い顔をよけいに怖くして候先生は怒っていた。
中国の大学というところは今でこそ、どうなっているのか判らないが、当時は勉強をしたいもの、頭のいい者しか入れない。
授業をサボったり、教科書を忘れてきたり、授業中に雑談するなんてもっての外である。
生活水準なんかも大学卒ともなると、住宅の供給を受けたり、就職しても給料が断然違ってくる。
しかるに学生もヘラヘラした奴などどこにもいない。
そんな中で過ごされてきた候先生である。
私達をムシケラを見るように、怖い顔をしながら、呆れ返っておられたようだ。
全般的に言えることは、西洋の先生とは違い、東洋の先生にはジョークが通じない堅物、超真面目人間であるからして、当然授業だってつまらなくなる。
「へぇーい!だめだめぇー!」と違って「だめっ!」の一言で片づけられる。
緊張の糸が教室いっぱいに張り巡らされる。
私達は蛇に睨まれたカエルのように、この先生と1年間嫌でも付き合わなくてはならなくなった。

勉強の出来る子がいい生徒で出来ない子が悪い生徒。
座席で言うならば、最前列から3列目あたりは、しきりに先生の話を一句たりとも逃さぬように、ペンを片時も放さず、くらいつくような眼差しで1時間半を退屈などせずに我慢出来る良い生徒で埋め尽くされる。
4列目から後列の2番目あたりまでには、時々何を思ったのか、ノートをとってみたり、かと思えば窓の外をぼんやり眺めていたり、目立たぬように休んでみたりの所謂、演技派である普通の生徒が陣取っている。
そして最後列と1つ前の列には、「あんたたち何しに来たの?」と言われても決して「勉強です」などとはおこがましくて答えられない生徒、ペンは持たない。ぺちゃくちゃと雑談し、時たま笑い声なんかをあげたりしてしまう。
静かやなぁ?と思っていると必ず寝ているか、授業とは全く関係の無い内職に精を出している。
当てられても答えられるはずのないとんでもない悪い生徒が座っている。
このようなシチュエーションの中、私はご想像の通り、いつも最後列だった。
その中でも何故だか彼から嫌われていることを感じ取っていた。
彼の私を見る目が他の生徒とは違うのである。
私を見る時の彼は眉間にしわを一杯こしらえて、眼が三角になっている。私が発音しても「プハオ!」の一言で正そうともしてくれなかった。
(こりゃぁ、いじめって奴かな?)と、内心悲しかった。
たとえ、テストで100点を取ったとしても日ごろの授業態度で60点あたりまで下がってしまうに違いない。
とんでもなく暗い気分であった。
おのずと、この候先生の授業は足が遠のいてしまう。
欠席は年間で7時間までがボーダーラインだ。
だからとびとびの出席になっていく。
とびとびの出席だから、進行状況がわからない、イコール、つまらない。
つまらないから、今度も休んじゃおうかな?と甘えがでる。
まるで登校拒否の子供である。
語学には予習、復習が不可欠である。
この候先生の授業では予習をしていかねば、どえらいことになる。
当てられて答えられなかったが最後、こっぴどく延々とお説教を食らってしまうのである。
「何故に勉強しないんだ?」と。

授業では、前列からワン・センテンスごとの区切りを学生たちに訳させていく。
「人民日報」という堅苦しくてつまらなく腹立たしい文章である。
全く面白くもクソもない。
やれ、四人組みがどうとか、江青女史がどうとか、そして極めつけが日本軍に対する強烈な攻撃記事を訳す時などはムカついて仕方が無い。
確かに日本は中国に対してそれはそれは極悪非道な行いをしてきた。
これは周知の事実ではあるが、過去を蒸し返して嫌がらせをしているのか?
日本軍が犯した罪を二十歳そこそこの若者に償わせようとしているのか?
学生にこんな文章を訳させて喜んでいるのか?
候先生、あなたはそんなに日本が憎いのか?
ならどうして日本へなんぞやってきたんだ?
復習の為か?
これを日本の政治家共の前で訳させたら初めて私は候先生を尊敬する。
仮にもあなたの給料はその憎っくき日本の大学から出ているのではないか。
なぜにもこんな嫌がらせをするのか。
私は候先生が嫌いで仕方なかった。
しかし、前列のド真面目な軍団はしゃぁーしゃぁーと日本軍の悪口を訳して気に入られようとやっきになっている。
「お前達!恥ずかしくないのかっ!」
私は私のポリシーが許さなかった。
別段私は愛国精神に燃えた学生ではなかったが・・・

私がこの候先生から見放されたと思ったのはある日のことだった。
授業が始まり、何時もの如く前列から訳がセンテンスごとに科せられていく。
予習をしていかなかった私は順番を数えて、自分のセンテンスになるだろう個所を必死で訳していた。
自分の受け持ち個所を訳し終えた私の横には、私とどっこいどっこいの平岡美世子が座っていた。
私達は必死で助け合いながら訳していた。
前列が終わり、次は私の番だ。
いっちょ、答えてやろうと身構えていると、ここで候先生は私と平岡をずーんと飛び越して、隣の前列に指名をしたのである。
これにはさすがの私もうろたえて、ショックの硬直状態になってしまった。
平岡は何も考えずに「ラッキー!」と喜んでいるが、これは単に喜んではいけないのである。
「あんた、これがどーいうことなんか判ってんの?」と聞く。
「ラッキーやんか!」
「これはやなぁ、うちらがいないものやと思われてるっちゅうことやで!」
「いないって思われたらええやん!」
「アホウ!いない、イコール、うちらがいくら勉強したってもう駄目さ!いないんだから・・・だから単位だってあげないよぉ!ちゅうことやねんで・・・」
「・・・」
二人はがっくりと肩を落としてしまった。専門教科の先生に無視されてしまったらもうお終いである。
進級なんぞ藻屑である。
暗く重たい気分で前期を終え、夏休みに突入した。
こうなればポリシーがどうたら言ってる場合ではなかった。
後期からは心を入れ替えて、最後列に座るのは止めてせめて、5列目あたりに座って普通の学生になろう。
日本軍の悪口もニコニコしながら訳しましょう。何でもやりましょの気分だった。
候先生は学生たちに宿題のレポートを言い渡して去っていった。
課題は「自分」というものの中国語作文であった。
夏休みにはクラブの合宿、アルバイト、などと忙しい毎日ではあったが、このレポート完成に全力を注いだ。
どうせ嫌われているのである。
今更飾ってみても仕方が無い。
ここは本音の自分を正直に書いてみた。
取りあえず内容としては、一日の私の生活から始まり、殆どが音楽とバイトに開け暮れていること。
アルバイトをしなければ生活が出来ないこと。お腹が空いていること。忙しいこと。
そしてそんな中で音楽が自分にとってどれほど救いになっているのかなどを延々と書き綴った。
「・・・・中略・・・私はバンド(楽隊)を組んでいます。その中で私は詩を作っています。詩は私の中のイマジネーションを大きく膨らませ、欲望を満足させてくれます。現実からの逃避かもしれませんが、私が詩があるからこそ毎日の困難にも耐え抜くことが出来るのです。出来れば将来プロとして活躍したいと思っています・・・・・etc。」
などと殆どまとまりのない半ばやけっぱちな文章をつらつらと書き並べたのだった。

9月も半ばを過ぎて、後期の授業が始まり、恐怖の候先生の授業も再開した。
しかし、妙なことに候先生の私を見る目が変っているのをはっきりと感じ取った。
眉間のしわの本数が減り、三角だった目のカーブがやわらかな曲線を描いている。
まろやかなまなざしは、丁度父親が馬鹿娘に投げかける視線に似ていた。
私にはさっぱりとこの原因がつかめずにいたのだが、授業が始まってそれが解明された。
候先生は宿題のレポートの中から、先生が抜粋した文章を朗読し始めたのだった。
うん?何だか聞いたことがあるぞ。うっそ・・・これはあたしのだ!
「フォンティエン(豊田)のレポートは感動しました」候先生ははっきりそう言ったのである。
そしてその後に、「俳句、とってもよろしい!ハオハオ!」
(何ぃー?俳句だってぇー?)
前列の奴等がプフォーと吹き出した。
私はシンガー・ソング・ライターなのだ。
バンドの歌詩は作るが、決して俳句なんぞ作ったことなどない。
だいたい私の容貌からして、どこに俳句などという雰囲気が漂っているのだろうか?
しかし候先生は目のカーブをへのへのもへ字状態にしながら、「うんうん。頑張りなさい!」と激励を繰り返す。
彼の態度は一変した。
苦学生は世界でも美徳として受け入れられるのだ。
しかし、私はそればかりではないなと睨んだ。
そうだ!候先生は俳句が好きなんだ!
しかるに私もその彼のにこやかな曲線カーブに答えなくてはならなくなったのである。
おサボり組には中華料理が得意の「張君」がいた。
留年をして我らのクラスに落っこちてきたのだが、彼にとっては後がなかった。
彼は中華料理を恋しがる中国人先生達の弱点に目を付け、下宿に招いたり、先生宅を訪問したりして、中華料理のレパートリーを進呈していたのだ。
彼の成功談話はクラスでも有名だった。
私は考えた。
奴が中華料理で単位を獲得するのであれば、私は俳句という武器を持っている。
後の教科は何とかなりそうだが、この候先生の単位はかなり大変なことになるだろう。
作らねばならぬのか?俳句ってやつを?
勿論私は俳句に興味があるはずもないし、作ったこともない。だが、毎度の授業の度に候先生の曲線のカーブを浴びるのもしのび難い。
そこで、私は即興の俳句一句を授業の終了後にこの候先生に差し出したのだ。
小さなルーズリーフのノートの切れ端にこう書いてみた。
「落葉の、あんの香漂う、神馬堂」と。
要約すれば、落ち葉が舞い散る秋の夕暮れ時、人生に疲れきった学生が一人、上賀茂神社の落ち葉を踏みしめながら
帰途に急ぐ。
そこに何とも香しい甘い匂いが立ち込めている。ふと見ると「神馬堂」の焼き餅である。
何代もの格調が老舗としての風格を保っている。観光客にこそ売れているものではあるが、毎日見慣れている学生にとっては
ただの焼き餅屋である。
普段は匂いなんぞ嗅いでいる余裕はないのだけれど、腹を空かせ、明日の生活にやつれた学生にとってはこの神馬堂から流れ湧き出る香ばしい甘いあんの香りはふと、生きる意欲を駆り立てる。
人生もまだ捨てたもんじゃない。といった句なのである。
ネガティブからポジティブへの変換が短い句の中に織り込んである。
これを受け取った時の候先生は、本当に喜んでシエシエ!と握手までしてくれた。
前期で無視された学生は見事に脚光を浴びたのだ。

それからというもの、私は授業の度に俳句を一句提出しなければならなくなった。
渡さない日は候先生がなんとなく寂しそうなのだ。
あれほど嫌いだった先生だったが、こうなると、とても可愛く思えてくる。
張君のように原価はかからない。実に単純な方法で候先生を味方にしてしまった。
歌の詩を作のも一種の5、7、5調に季語を組み込んで行く作業であるので、そんなに苦心しなくともある程度の句は用意が出来た。
以降、候先生は授業の終わりに私が手渡す俳句を受け取ることが楽しみとなり、私はそれに答えて頑張った。

後日、このことをクラブの連中に話すと大爆笑だった。
「あんたが?俳句ぅー?」である。
しかし、何と他にも実に私と似たような境遇に頭を痛めていた後輩がいた。
彼女はドイツ語を専攻していた後輩で、ロックバンドのヴォーカリストだった。
ドイツ語学科においても夏休みの宿題に独作文を科せられたそうで、彼女も作文に私はロックバンドでうたを歌っていますと書いたのだ。
「ましですよ!俳句なら!」彼女は口を尖らせた。
彼女が作文を披露した時、ドイツ人の先生は言ったそうだ。
「うんうん。詩吟ね!結構結構!」と。
それ以降、彼女の部屋を通過すると訳のわからない詩吟が聞こえてくるようになった。

外国人の先生達よ!もっともっと日本を知りたまえ!と叫びたくなった。





結婚式

昨今の結婚式というものは実に様々な演出を凝らし、人生の門出に花を添えている。
冷めた時代であるからこそ、余計に豪華、派手になっていくのはわからない気はしない。
時にはミュージカル何ぞを見ているようなものすらある。
私も今迄にいろん結婚式に参加させてもらったが、その中でも生涯忘れられない結婚式に参列した思い出を語らずにはいられない。
何せ生まれて初めて参加する友達の結婚式だ。
私はこの事件を暴露してよいのやら迷ってみた。
何故なら彼女の家名に傷がつく?かもしれないからだ。
だが、やっぱり書いている。
女の友情なんてはかないもんなのである。
あなたも覚悟した方がいい。

あれは、私が大学を卒業して間もない頃だった。
中学時代から「角砂糖」という名のバンドを組んでいて、真剣にプロになろうと3人で約束していたにも関わらず、
ヴォーカルを担当していた岡村妙子に彼氏が出来た途端、段々とデートがあるからと言っては練習を渋り出したのである。
まぁ第二の思春期であるからしてしょーがないが、女の友情とははかないもんだと実感し、あえなく私と松田美佳との二人で細々とギターを鳴らしていた。
そこにマネージャーだった速水縁が加わって、時間を作っては3人で遊んでいた。
仲間内からの初の結婚であったので、友達としては岡村に心から幸せになって欲しい?と思っていた。
勿論通常通り、結婚祝いは何が欲しいかと尋ねる。
「バス・ローブが欲しい」という彼女に我々は変な奴っちゃ!とは思いながらも、このメルヘン女の願いを叶えてやろうとペアのバス・ローブを贈ったのだった。
しかし、これを届けに行った美佳がブリブリ怒って報告した。
「こんなん着る様な家に住まへん、こんなん二人とも着ぃひんでぇー」と、言ったそうだ。
バス・ローブが欲しいなどとアホなこと言うたんは、お前やろが!!と我々は怒り狂った。
我々もそれぞれ社会人となって働いてはいたが、別に高級取りだった訳ではない。
しかし私の社員割引を利用して高価な物をプライスダウンさせて、3人のなけなしのお金をはたいて購入してやったというのにこれが結末とは情けない。
まぁしかし、気に入る気に入らないにしろ、これで結婚祝いとしての形式は済ますことが出来たのだ。
あとは知らん、勝手にやっとれの気分だった。
結婚式が玉姫殿あたりであるにせよ、こんな嫌な思いをした私達であるが、あちらが出席を願い出るなら仕方が無いと重たい腰をあげてやろうかと長年のよしみやなぁと話し合っていた矢先、岡村は案の定、結婚式の出席を求めてきた。
「結婚式は旦那になる彼氏の実家がある徳島でするので、出席して欲しい」とうことだった。
これには3人とも絶句した。
それぞれ会社や彼氏のことで忙しい立場の私達であったのだ。
いくら幼なじみとは言え、はるばる徳島まで列席するほどの親友でもないし、億劫だし、まさにそんなお金を捻出することも困難であった。
我々は殆ど辞退を申し出ようとしていた時、彼女側から徳島での宿泊、飛行機代、前日の大阪エアポーとホテルの宿泊、すべて手配するので是非とも来て欲しいと言うのである。
三人が三様のOL時代である。
学生時代と違ってなかなか三人でのんびりと旅行なんぞしたくても出来なかったし、この申し出には費用がかからないし、飛行機にも乗れるときたもんだ。
三人にとっては実においしい話となってしまった。
あれだけブーたれていたにも関わらず、手のひらを返したように喜んでこの申し出を受け、バス・ローブの一件はひとまず、棚の上に放り投げ、この友の幸せを再び祝福する気持ちになっていた。
えらく単純で演技派である。
しかし岡村は私と美佳の二人に1つの条件をつけてきた。
それは私と美佳の二人にギターを持ってきて、披露宴の席上で余興をやれ!と言うのである。
どこまでメルヘン女すりゃぁ気が済むのさ?これには参った。
うちらはそりゃぁプロとしてまではお粗末極まりない。だが結婚式の余興なんぞドサ回りはゴメンである。
これでも何がしのプライドってもんがある。
それに大阪あたりの玉姫殿あたりならともかく、私達は勤務後に直接エアポートホテルへ行かねばならないのだ。
披露宴での正装と小物一式、洗面道具から何かれ一式を持っていかねばならないのだ。
たった2泊と言えども女の旅は荷物がかさ張るものである。
当然帰りには引き出物やお土産で一杯になるはずだ。どうやってどでかいギターをぶら下げて行けるのだ?
ギターの1本や2本、徳島にはないのか?
そんなにギターが聴きたきゃぁ自分たちでやればいいのである。
新郎新婦で仲良く、チェリッシュやベッツィー&クリス、ひでとロザンナでも何でもいい。
しかるに岡村にはこれだけは勘弁して貰った。
しぶしぶ彼女も承諾してくれたのでほっとしていた。
田舎の結婚式がどんなものかも知る由もなく、不安は過ぎったのだが、とりあえず三人で旅行が出来るのは単に嬉しくウカレていた。

出発の前日、一日の勤務を終えて、くたくたになりながら伊丹のエアポート・ホテルに到着し、チェックインした。
殆ど修学旅行の延長だった。
ホテルの1室で三人は、明日我々が徳島に行くのは「岡村妙子の結婚式」に行くなどという任務はすっかり忘れ、岡村のバスローブから始まり、ギターのこと、ドサまわりのこと、悪口に花が咲いていた。
これだけ言いたい放題を放ちながら、明日は「おめでとう!お幸せにィー!」なぁーんてことを言えるのだから女って恐ろしい。我々はきっと魔女なのだろう。
まぁしかし、一緒にバンドをやってきた仲間でもあったのだから仕方あるまい。
親しい親友もあまりいない彼女が招待をしのは我々3人だけであった。
そもそも田舎の結婚式というのは村をあげて祝うらしいと聞いていたが、都会っ子の我々には想像もつかなかった。
岡村本人は前日から徳島に飛び、式の予行演習に励んでいる間、私達は夜の遅くまで無邪気にはしゃいでいた。

出発当日の朝、岡村の両親そして兄弟が神妙な顔つきで私達三人に「よく来てくれました。ありがとう。」と済まなそうに始終気を使ってくれていた。
このおばちゃんがいたからこそ、我々はある程度暴動を起こさずに我慢したのである。
このおばちゃんの為にも我々出来る限り本性を出さずに、決して不良行為は避けようと決めたのだった。
いざ、徳島に向けて国内線のプロペラ機に乗り込んだ。
ペラペラとプロペラ機が飛んだ。遊園地の飛行機には乗ったことがあったが、これが私の生まれてはじめての飛行機の体験であった。
揺れはひどいが、三人の体調はすこぶる万全で、箸がこけても面白いお歳頃。
女学生のように始終ギャーギャーと笑い転げていた。
一つ揺れる度にギャー、二つ揺れるとギャーこわぁーい!などと奇声を発しながら・・・・
行きはよいよい帰りは怖いなどとも知らないで・・・

あっというまにぺらぺらのプロペラ機は徳島空港に着陸した。
何ぁーんにもない辺鄙なたんぼのまん中だった。
まずは小型のバスが出迎えてくれていて、すぐさまそれに乗り込んだ。
バスはどんどんと更に辺鄙な所へと進んでいく。
見渡す限りたんぼ一色である。
殆どこの景色にはうんざりしていた。
何か監獄にでも護送される囚人のような気分で、ついさっきまで元気ではしゃいでいたのが嘘のように三人の魔女は神妙な顔つきに変っていた。
「一体全体、何処へ連れていかれるんやろ?ナチの収容所じゃあるまいな?」と、不安がずんずんつのっていく。
ようやくバスは田んぼと畑の真ん中の本当に何もないところで我々を降ろした。
岡村の旦那様の実家である。
一体何処に結婚式会場があるんや?とあたりを見回してみたが田んぼと畑以外に何も無い。
私達はこれから一体どうなるのやろ?とい不安に苛まれながらお互いに顔を見合わせるのだった。
しばし歩いていくと家らしきものを確認した。
玄関先で相手方の母上様に挨拶した。てきぱきと忙しそうにしていたが、こーいう義母だと岡村もしんどいやろうなぁとちょいと
気がかりになってしまった。
正装に着替えて待っていると、岡村が花嫁衣装を着込んでやってきた。一応に三人は感動などして、口々に奥歯がぼっこり抜けそうなお祝いの言葉を嫌と言うほど浴びせる。
彼女からこの儀式の説明を始めて知らされた。
何とこの家から、式場のある公民館まで行列をするという。
従って私達はこの花嫁の後を金魚の糞みたいにくっついて歩かねばならないそうだ。
我々の目は点になっていた。
参勤交代の大名行列か?仮装パーティーか?
一張羅の服とハイヒールを履いて、この田んぼのあぜ道を歩けと申すのか!?
何やら「犬神家の一族」の映画だったろうか?思い出せないが、こんな光景はどっかの画像で見たことがあるが、まさかこんな結婚の儀式が未だに残っていようとはと驚いたのと同時に、船に乗って島を渡るよりはマシかな?と諦め、寒い風の吹く中、ヒールを泥だらけにして込み上げてくる笑いと怒りを堪えるのに三人は必死だった。
笑いながらここでひょとこ踊りを振り舞いたくなる。
しかし駄目だ、しちゃぁいけない。これは神聖な結婚の儀式なのである。
とりあえず、公民館まで行列をして辿り着いた。
勿論結婚式は親族達のみで行われ、我々は披露宴が始まるまで待たねばならない。
ここはコーヒーとタバコで気を落ち着けようという結論に達した。
喫茶店を探すが見当たらない。どこを見回してもやっぱり田んぼしかない。
コーヒーと禁煙で禁断症状が現れる。イライラしてきた。
仕方なく公民館に入ると、何と前日からこの結婚のために村人が集まり、飲んでいるというではないか。
「まだ準備が出来ておりませんさかい、こちらでお待ちくだしゃんせ」と案内された小部屋に入って、監禁されてしまった。
見るも無残で汚いフトン部屋だった。
3人は顔を見合わせて、硬直状態に陥った。
座布団、せんべい布団、枕などが積み重ねられていた。
一体何やねん?
これが、徳島流のお客様のおもてなしという訳かぁ?
寒い思いをして、ハイヒールは泥だらけ、あぜ道をてくてく歩いてやっと到着したというのに!
こうなれば三人はいい子ちゃんのぶりっ子ちゃんなどやってらんない。
積み上げられていた布団を敷いて、正装であるのもお構いなしに、ゴロリと横になったり、胡座をかいたり、プッカァーとタバコを吹かしたりと、三人がそれぞれにおくつろぎの体制に入っていった。
もう、けちょんけちょんのぼろんちょんである。
悪口が盛り上がる盛り上がる。
思いっきり盛り上がっていた矢先、突然襖がすぅーっと開いた。
相手方のお母上が挨拶にやってきたのである。
「こんなところで待ってもらって済みません」と私達の悪口が届いたのか?一応しおらしく言うのではあったが、彼女の鋭い眼差しは我々の姿をギョロリと隅々まで舐め尽くすように這い回っていた。
我々ははっと我に返り、姿勢を正して、もう手遅れだとは思いながらも、いい子ちゃんに変身するのだった。
そしてまたまた「本日はどうもおめでとうごいざいます」なぁーんて我ながら吹き出しそうになるのをぐっと奥歯を噛み締めて堪えながら、歯は殆ど入れ歯のように浮き上がってくるのを抑えていた。
襖が閉まり、足音が遠のくと、再び魔女に戻って「ぎゃーはっはっはぁー!」と一笑いしてから、「何やねん!遥々大阪から仕事休んでやってきたちゅうのに、何やねん!」とまたまた大騒ぎである。
「もうここでええから料理持ってきてんか!ここでうちらだけで宴会するさかい!」
「うちらは疲れとるんやぞぉー!ここで寝るぞぉー!」
「ここじゃぁ、コーヒーはないんかえ?茶ぁの一杯、コーヒーの一杯も出ないんかえ?」
と怒りは段々と極限に達していた。
すると今度は岡村のおばちゃんがぬぅーっと顔を出した。
彼女はぶふっと吹きながら、「こんなところに詰め込まれたん?酷いなぁ・・・」と済まなそうに同情しながらも顔は笑っていた。
彼女は私達の本性を知っているから、いい子ちゃんをずーっと演じているのがどれほどしんどいかを判ってくれている。
だが、おばちゃんとしてもどうしようもない。
「ごめんなぁ」と一言言って、消えて行った。

ようやく布団部屋から解放されて、広間に案内されて、披露宴が始まったが、はっきり言って私達はダレていた。
正装などしてくるのではなかったと、しわくちゃになったスカートを見ながら後悔していた。
岡村家の恥じになってはいけないと暴動こそは起こさなかったが、あの布団部屋での待ち時間でいい子ちゃんをやっているのが一気にアホらしくなってしまったのだ。
殆ど新郎新婦を無視して、村の青年団たちのお近付きも無視して、三人で盛り上がっていた。
何やらこの村から三木首相が出たそうな・・。そのことばかりをやけに強調するのであるが、それがどないしてん?である。
披露宴が終了してようやく私達も呪縛から解かれたように解放感で満たされたのもつかの間、我々の本日の宿舎まで連行された。
本日の宿舎前にて、再び三人の魔女は硬直状態へと落とされた。
エアポートホテルとまでとはいかずとも、ある程度のホテルでのんびり出来ると思っていたのだ。
ホテルに戻って一風呂浴びて、繁華街へ出ていってお土産を買ったりして、あとはちょいと居酒屋なんかで再び盛り上がろうではないかという構図を各自が描いていただけにそのショックは酷かった。
私達の目の前にかろうじて建っていたものは、民宿の出来損ないの幽霊館のような風貌をなしていた。
こんなところにお客はやってくるのだろうか?
本当に営業と呼ばれるものをやっているんだろうか?と疑うくらいのそれはそれはえげつなく暗くて汚いものであった。
仮にも友達を呼び寄せるのなら細心の注意を払い、事前に下調べをするのが常識ではないのだろうか?
「バス・ローブ」「田んぼの大名行列」「布団部屋」。
岡村は事前に調査を入れたのか?
自分たちだけルンルンと沖縄なんぞに新婚旅行に出掛けよって、我々をこんな幽霊館に押し込んで。
押し込められるのは布団部屋だけでもう十分である。
こんな汚い宿屋で風呂にも入る気はしない。繁華街なんぞどこにもない。居酒屋なんてとんでもない世界だった。
お岩さんやお雪さんやおつゆさんや、傘お化けや一つ目小僧やげげげの鬼太郎、ありとあらゆる世界中のオバケが集まって、
出てきてもちっとも不思議ではないおばけ屋敷のような宿に再び監禁されてしまった。
宿主に「コーヒーはありまへんか?」と聞いてみた。
「ないねぇ」
「じゃぁ喫茶店は近くにありませんか?」
「ないねぇ」
この村の人間はコーヒーを飲まぬのか?むかついていた。
丸1日コーヒーを飲んでいないのだ。
コーヒー中毒の私は当時、一日に10杯は飲んでいたもんだから、どーしてもコーヒーが飲みたくて仕方なかった。
隙間風の入るじめじめとした汚い部屋で、一文句言い終えた後、私達は作戦会議を催した。
この作戦会議とは、引き出物対策であった。
田舎の結婚式の引き出物はやたらとでかいと聞いていた。
案の定、一体これをどうやって持って帰るのさ?という程の量だった。
それでなくとも大阪から荷物を抱えてきているのである。よくぞここにギターが加わっていなかったもんだと胸をなで下ろしていた。
引き出物はコンパクトでかつ簡素なものでいいのである。
どでかい果物籠や折り詰め、何が入っているのやら判らないとてつもなく重たく大きな箱。
これほど迷惑なものはない。
速水縁がとぼけた顔をした言う。
「ほかして行こか?」
松田美佳が言う。
「あかんで、それは・・・バチが当たるで!」
私は言う。
「忘れたと見せかけて置いていく・・・」
しかし、独身魔女とはいえ、いつか私達も結婚というものに将来遭遇することになるだろう。このバチが当たるのはごめんである。
結局食べ物関係はここで食べるしかない!という結論を下し、居酒屋だったはずの宴会がこの幽霊館に変っただけで折り詰めと果物籠を悪口のおつまみにしながらむしゃむしゃと食べはじめたのだった。
しかしあれだけの果物や折詰の仕出しものを一度に胃袋に詰め込んだのは後にも先にもないことだろう。
翌日はフライトの時間に余裕があったので、徳島市内の繁華街でバスを降ろしてもらった。
喫茶店を見付けた時の感動は未だに忘れない。
三人はなだれ込むようにして喫茶店へ入っていってコーヒーを飲んだ。
ようやく文明社会へ復帰が出来たのだ。
すぐ近くの百貨店に働いているという大学時代の友人を尋ねることにした。
前日の悲惨な結婚式の様子を話すと、彼女は同情して、「あのあたりはしゃーぁないで」と笑っていた。

徳島空港に到着し、やれやれやっと帰れるぞ!と安堵した。
果物籠や折詰を消滅させたとは言え、箱の方はずっしり重たいものだった。
速水縁が「これ、この中身、お盆やったら、怒るでぇ」と言う。
三人は顔を見合わせながらうんうんと頷いた。
プロペラ機は再びペラペラと揺れながら徳島を後にした。
行きとは違って誰もはしゃぎもしなければ、騒ぎも、笑いもしなかった。
伊丹空港到着後、三人は無言のまま、そのままトイレへ直行する。
三人とも激しい下痢と腹痛に襲われたのだ。
あれだけ岡村の悪口を言ったバチがあたったのである。
憔悴し切って帰宅したあと、この重たい箱を紐解いてみた。
笑いながら硬直状態に突入した。
すぐさま、速水縁に電話をいれると、彼女も何も言わずとも電話の向こうで笑い転げていた。
中身はやっぱりお盆だった。





中国大陸初上陸

旅行と音楽が3度の飯よりも好きな私は、退屈極まりない仕事を終えて、地下鉄で帰途につく途中で唯一の楽しみと言えば、旅行会社の店頭のスタンドに並べられて挟まっている旅行のパンフレットを抜き取って、未知への憧れの世界を垣間見る時間である。
いつものように私はふらりと店頭スタンドに足を止め、カラフルに色取られた数々の国々へのパックツアーのパンフレットを手にとって眺めていた。
そこで私の両目を釘付けにしたものは「北京三泊四日、食事、観光付、¥128、000というものだった。
当時の私は学校を卒業して10年以上も経過していた。
在学時代は中国語を選択していたにも関わらず、実社会に出てしまってはもう殆ど中国語とは無縁の生活を送っていたのだが、どうしたことかふと勉学意欲に突如として目覚め、ボケ防止対策として住之江区主催の中国語教室に週に1度通っていた。
日本語にしろ英語にしろ、中国語にしても、私は難しい書物は苦手である。
特に中国語については、大学時代には人民日報などの実に退屈な文章ばっかりの世界であったので、中国語そのものの面白味を感じる余裕も無く、ただ単に試験の為の勉強をしていたという実に情けない学生だったのである。
しかし、卒業後、児童書やなぞなぞ、笑い話、短編集などを暇が出来た時にはページをめくっていた。
もっともっと書物が欲しかった。しかし、日本では気に入るものを見つけることは困難であったし、また外国語ということで、価格がぐーんと馬鹿高くなってしまう。
しかるに北京まで行けば、思い存分自分の好みの書物に巡り合う事が出来るという訳で、私の興味はこのパンフレットに釘付けとなってしまったのだ。
出来れば個人旅行で行きたいのだが、個人旅行だと返って金額が高くついてしまう。
ところが大手の旅行会社であれば、季節さえ外せば高級ホテル、観光、食事付なんかで、個人旅行では到底真似の出来ない金額を打ち立てているのが現状だった。

北京には新華書店というどでかい本屋がある。
自由時間にこの本屋へ出向いて、どっさりと本を買い込むことが出来るだろう。そして何といっても万里の長城はピラミッドと同様に死ぬまでに1度は見ておきたいものだった。
宇宙から見える唯一の建造物、秦の始皇帝が自分の才や能のなさをカムフラージュするためにやたら巨大なものを建てることで
全国にその力を信じ込ませていた。
存命当時から地上の富以上の宝飾を地下に埋め込んだという墓、工事の完成後には工事に関わったすべての人夫たち数千人を生きたまま生き埋めにしたという到底考えられない非道なほどのスケールの大きな隣国を私はこの目で見たかった。
最後の皇帝溥儀の生涯を描いたラストエンペラーの舞台となった故宮も是非とも見たい。
日に日に憧れが募ってゆき、よし!決めた!行くぞ!と、この北京旅行を決定したのだった。

当所は一人で参加するつもりだった。
しかし、こういうパッケージツアーでは一人で参加するとホテルの一人部屋追加料金というものが加せられる。
なかなか私の回りには北京へ行こうなどと興味のある友もなく、追加料金を払ってでも決行するつもりでいた。
ある日実家に戻り、この北京旅行のことを報告した。
父はふぅーんという顔をしていたのを見て、長年に渡って親不孝をしている娘としては、ここでピーンと閃いたのだった。
父に「ねぇ、お父さん、一緒に行かへん?」と誘ってみた。
海外旅行については、父はいたって批判的であった。
日本の素晴らしさを知らずして、何が海外旅行や!っていうのが彼の持論であるらしかったが、私はいつも海外を知らずして日本の良さが判るんか?と反論するのだった。
父は私の、一旦言い出したら誰の言うことも聞かない強情な性格を実によく知っている。
父はこいつは頭を打たなきゃ判らん子だということも知っている。
「頭を打って初めて自分が見えるんや。だけどお前は俺が作った家族の一員やから、お前が困ったら助けてやる。だが、人を傷つけたり落とし入れり卑怯な真似をしたら、許さん!」という小柄な身体に似合わない実に男らしい父の下で育ったのであった。
このことは今でも誇りに思っている。
決して猫可愛がりすることなしに、学校での成績がどれほど悪かろうが怒りはしなかったが、掃除をさぼったり、人に怪我をさせたりといったことになると思いっきり叱られた。だが基本的には私の自由奔放さを認めてくれていた。
しかしよる年波にはかなわないものである。
子供の頃は思いっきり怖かった父も、今では「健ちゃん」と呼び捨て出来るような友達感覚となってしまった。
社会に出て散々な目にあって、頭がぼこぼこになるほど頭を打って、再び実家に戻った時、生活費も入れないうえに、帰宅によって酒代がぐーんと嵩むようになった親不孝な娘に「いつまでも、あると思うな、親とビール」などという俳句を一句、私の机の上にポーンと置いてあったことがある。
そこで、私は父の机の上に「心して、飲めば美味しい、親とビール」という返句をポーンと置いてやった。
さすがの父もこれには参ったようだった。
世間一般、父親とは娘に弱い生き物である。
我家でも例外ではなかった。
私の提案に戸惑いを見せながらも「まぁ、行ってもええかな?なぁ?お母さん?」と乗り気になってしまった。
母は「何をアホなこと言うてんの?中国語も知らんくせに!」とジェラシー交じりで父を睨んだが、私はすかさず「私がいるやんか!あたしがいるから、大丈夫や!」と大ボラを吹いてしまった。
父も、何も言わずとも、「娘は学校でしっかり中国語を勉強してきたはずだ。プロだ。プロがついているんやから、わしゃぁ、付いて行くだけや!」と、思ったはずなんである。
実に甘い。
とにもかくにもこのようなプロローグで、私は天下のABCトラベルに旅行を申し込んだのだった。
父と娘の孝行旅行ということだ。

3月の中旬といえども北京である。
しっかりとした防寒具が必要だ。
ダウンジャケットを買い、おばんシャツも買い込んだ。
父は生まれて始めて持つパスポートというものにいささか興奮気味だったが、段々と出発が近づくにつれ、少々億劫気味にも思われた。
無理も無い。もう60歳を超えた老人であるのだから、それにひょいとするとこの老人は飛行機が怖いのかもしれない。
何とかルンルン気分にさせようと、私はガイドブックを進呈したり、最低必要限の中国語を伝授した。
「はい、いいえ、私は豊田健吉です。日本人です。トイレはどこですか?」というたぐいのものだった。
しかし実は、私には億劫に見せかけて、母の話では、せっせと防寒コートを買いに出掛けたり、旅行会社に電話を入れて、北京の気候や持ち物に関する様々な情報を問い合わせてみたり、ご近所には「娘にせがまれましてなぁ。しょーがおまへんねん」などと嬉しそうに、そしてこっそりと即席中国語の勉強のために机に向かっていたということであった。
何とも可愛い父である。

3月14日金曜日。
薄曇りの天候の中、私と父は伊丹空港へとリムジンバスに乗り込んで、伊丹空港の団体集合ロビーに到着した。
ABCトラベル主催の本日のツアーには、1組の若夫婦、1組のカップル、1組の親娘、1組の女性組、そして中年のおじさん一人という合計9名が参加していた。
係員から説明を受けて、搭乗までの時間をレストランで過ごした。
父と一緒だとこういう料金は彼が支払ってくれるので、実に有難い。
次々に大空に飛び立ってゆく色とりどりのジャンボ機を眺めながら、いつしか私もルンルン気分となる。
ふと父を見ると、かなり緊張の色を隠せない硬直状態に陥っているようだった。
出国審査を通過し、免税点では頼まれものを買い、半額のタバコを買うのだが、父はことのほか、これが嬉しかったようで、何カートンも買おうとしたのだが、店のお姉さんから「駄目!」と言われてシュンと子供のようになっていた。
中国東方航空のジャンボ機に乗り込み、父に窓際の席を譲った。
「こんなドでかい鉄の塊が、空を飛ぶなんてことが信じられん!」と、この後に及んでも、父の硬直状態は解除されてはいなかった。
この機内に乗り込んだ時からそうであったのだが、何か甘い匂いがプンプン立ち込めている。
機内食からの匂いなんだろうが、これがとにかく不味い。
搭乗前にレストランで軽い食事をしたせいかもしれないと思っていたが、そうではない。
やはりえげつなく不味いので、箸が進まなかった。
隣の硬直した老人に目を遣ると、硬直状態の中でも、しっかりちゃっかりと皿を舐めるように平らげていた。
「信じられん父だ!」と何か嫌な予感が走った。
スチュワーデスは実に愛想も愛敬もない。
公務員なのだから仕方ないのだが、一度たりともニコリともせず、黙々と乱れ髪で業務をこなしている。
たった2時間のフライトで飲み物と昼食のサービスをせねばならん訳だから彼女たちにとっては時間との戦いであるのだろうが、もうちびりと笑顔が欲しかった。
こんな不味い食事を出しているのだ、笑顔でカバーせずして何で賄うというのだろうか・・・
ムカついている私を他所に、父は始終窓を覗き込んで、大空に広がる雲の大雲海に見とれていた。

往路は北京までの直行便ではなく、一旦上海に降り立ち、再び国内線に乗り換えて北京へ向かうというコースだった。
国内線は国際線とは違ってかなりな低空飛行であるので、しっくりと巨大な中国の大地をを眺める事が出来る。
このプランは最高だね!と満足していた。(このときまでは・・・)
上海上空に差し掛かり、初めて目にする民家や建物に、ツアー客全員が窓に集中して見ていた。
勿論親娘も窓に吸盤でくっついたタコのようにへばりついていた。
かくしてABCトラベル総勢9名は一人として食中りや病人も出さずに、どす暗くて、湿気でじめじめとする上海国際空港に到着した。
日本では見なれぬ緑色の征服を着た警官や警備員やら軍人さんやら、区別のつかない異様な緊張感を漂わせる人達の合間を縫って、入国審査を受ける。何ぶん、私にとっても初めての中国である。緊張は隠せない。
こわばった顔で税関を抜け、ほっとしていたところ、ふと後ろに続いているはずの父が何を血迷ったのか、一旦通り出た税関を再びUターンしたのだ。
こらぁ!駅の改札やあるまいし!
私は「お父さん!お父さぁーん!」と呼び戻す。
父はしっかり中国人の税関員からガミガミとお叱りの言葉を頭から浴びせられていたみたいであったが、当の本人は中国語がさっぱり判らないのであるから、えへへ!と苦笑いしながらヘコヘコと戻ってきた。
「ちょろちょろせんと、しっかり団体に付いて行かんとあかんで!!!」と娘は父にお説教。
到着ロビーに出ると「熱烈歓迎」のプラカードを持った人達でごった返していた。
天下のABCトラベルの現地案内係員がにこやかに我々を待っててくれていた。
係員は中国人の女性であったが、流暢な日本語を話す彼女に一同は心なしかほっと、異国の地でため息をつくのであった。
彼女は名簿を広げて、1組のカップル、1組の女性組、そして中年おじさん1人の計5名の名を呼んで、彼等を先に案内するので、後の組は待っていて欲しい等と言う。
我々親娘と1組の若夫婦の4人を置き去りにして、係員と先発5人はそそくさと消えていった。
あまりにも予期せぬ出来事だったので、4人はただ呆然と言われたとおり不安な面持ちで、彼女の再来を待つしかなかった。
ふと冷静さを取り戻した私達は「あれぇ?どういうこと?どうして私達だけが残されてしまう訳ぇ?」と、むかつくのだが、ここは異国の地である。
私達は借りてきた猫のように不安な面持ちで係員の戻ってくるのを待っていた。
別にとびきりよそ行きの服装をしている訳でもなく、ごく普通の格好をしていた4人ではあったが、やはり我々はどこから見ても
日本人観光客に映るのだろうか、回りを客引きの中国人青年団の連中に包囲されてしまった。
何か有名タレントにでもなった気分である。
お兄さん達は何やらペラペラ喋っているし、時たま笑っているのであるが、彼等の中国語はえげつなく早い。
到底私の拙いヒアリングでは聞き取ることなど不可能だった。
ここで西洋人ならば、キョトンとしている顔で察知してくれて、思いっきりスローで話をしてくれるのだろうが、ここ中国ではそうはいかない。
疑問符が宙に飛び交っていた。
甲高い早口言葉である「カエル、ピョコピョコ、ミピョコピョコ、合わせてピョコピョコ、ムピョコピョコ」だ。
父はさすがに不気味がって、ここぞとばかりに私に質問した。「何言うてんねん?」私は答えた。
「わからへん」と。
父は実に情けないさげすむような顔をして、「お前、学校で勉強してたんとちゃうんか?」と、この時初めて父は私の学業のことについて口出ししたのだった。
これは私の毛の生えた心臓を貫通した。「私に任せとけ!って言うたんわ、お前やぞ!」父には合わす顔がなかった。
取り残され組の4人はロビーの隅っこで、必要以上にちょかいをかけてくる中国人青年団の早口攻撃に手も足も出なかった。
夫婦の奥さんの方は、私とどっこいどっこいの年令で、のほほんとした旦那さんとは対照的にてきぱきとした才女に見受けられた。
彼女も何やら近所の中国語教室に通っているそうで、今回はこの夫婦にとっても初めての中国訪問だったのだ。
取りあえず、中国語をかじっていたのは、私と彼女の二人であって、男性陣はグリコのおまけである。
彼等は「助けてくれー!」のまなざしを私達二人に浴びせるのだが、私と彼女は顔を見合わせて、「わかる?」「あかん!」と匙を投げ、彼等と視線が合わないように懸命だった。
父がこの緊張に耐えられず、ポケットからタバコを取り出し、火を付けようとすると、中国青年団達が一斉にフンニャフンニャと言いながら怖い顔を父に向ける。
わたしはそれでも最後に聞こえてきた「プーハオ!不好!」だけは何とか聞き取れた。
この「プーハオ」については、大学時代に先生から耳にタコが出来るほど浴びせられた単語である。忘れるはずはない。
きっとどんな中国語を忘れてしまっても「プーハオ」だけは死ぬまで忘れはしないだろう。
「駄目!タバコは吸うな!って言ってるんや!」と、父に説明をした。
すると夫婦組は目を輝かせながら「出来るじゃなぁいー!」と感動するのだったが、はっきり言って「プーハオ」ぐらいで感動されてもちいっとも嬉しくない。
ぞっとしながらも、せっかくやってきた中国なんである。
ここはいっちょう肝試しだとばかりにチョロチョロと私は喋ってみた。
すると中国青年団達ははたと目を輝かせ、先ほどにも増しての早口言葉で喋り始めた。「どこで勉強した?」
「大変上手だ!」とか、客になって欲しいがために、私を持ち上げるが、私は片言ながらゆっくりと「我々、行く、北京、故に、ホテル、タクシー、プーヤオ、不要!」彼等に向かって言った。
するとどうだ!通じたのである。
まるで有名タレントに群がる報道陣がもっとランクの上のタレントを見付けたかのように、クモの子を散らすように方々へ散っていった。

待つこと40分あまり、先行の5名を無事に送り出した係員が戻ってきた。
事の成り行きを尋ねてみると、何でも全人代の要人を運ぶ為に、私達4名の座席を確保出来なかったと言う。
全人代とは全国人民代表大会のことで、非常に大事な会議である。
しかしだ、事前に何の断りもなしに一方的に権威で持って旅行者の座席を要人に謙るという行為は、いかにも社会主義国を象徴している出来事だった。
しかし便が1本遅れるだけで、北京には今夜中に着けるという事なので、納得するより仕方がなかった。
私達は次の便までの間、空港近くのホテルで夕食を済ませることになり、係員の誘導に従ってマイクロバスに乗り込んだ。
私達が着いた所は日航龍泊飯店と称する日本系列のホテルだった。
レストランで中華料理のフルコースにありつき、仲良く自己紹介なんどをしながら青島ビールをグビグビと飲み干して文句を言いながらもチームワークを確立する。
「まぁ、旅というのはこうしたアキシデントも楽しいもんですよね」なぁーどと、この後に襲ってくるほんまもののアキシデントも知らずに和気あいあいと過ごすのだった。
空港まで戻る時間に余裕があるので、両替を済ませたり、お土産を買ったりして、時間を稼せぎ、ようやく再び空港へと戻り、北京へいく気分に切り替える。
現地案内人は乗り継ぎ案内だけの使命であったので、出発口まで案内すればお役ゴメンとなる。
にこやかに「サイチエン!再見!」を手を振りながら消え失せてしまった。
この頃から雲行きがみるみるうちに怪しくなってきて、雨がパラパラ降ってきた。
上海は湿気が多く、じめじめと気分まで暗くなってきたが、私達はもうすぐ北京なんだと、楽観的に構えていた。
出発ロビーにて、搭乗を待つ間に、降り出した雨脚はさらに激しいものとなり、ついには雷までを誘発させていく。
私達の顔から笑顔が消えた。
北京行きの搭乗を待つ者は200名近くで、日本人と思しき者は我々4名しかいなかった。
さすがに父も待ちくたびれて、疲れた様子だった。
申し訳ないなぁとは思っても私のせいではない。中国の要人が悪いのだ。
フライト予定のTV画面を食い入るように見詰めていたが、ゴロゴロドッカーン!と、雷は勢力をぐんぐん増していく。
笑顔が消え失せた私の顔と同様に、今度はTV画面がぱぁーっと消え失せてしまった。
「あれえ?停電かいな?」と、思ったが、電灯は点っている。私は硬直状態に陥っていた。
夫婦組の彼女も駆けつけてきた、「うっそー!」
「ねぇ?これって欠航ってこと?」お互いが目を点点にしながら見詰め合う。
「何がしらの説明があるはずや!ここは待つしかない!」
今後の事が一切察知できない世界でロビーはパニック状態だった。
しばらくして、空港関係者らしき者が入室してきた。
彼はフンニャフンニャと聞き取れない早口言葉で説明を開始する。彼が何か言う度に200名もの中国人達が講義や罵声を浴びせている様子を遠巻きに眺めていた。
私達4名はすっかり毒気を抜かれた蛇のように隅っこに寄り添ってとぐろを巻いていた。
甲高く騒がしいBGMの中、空洞と成り果てた私の頭で、何を考えることなど出来ようか・・・
パニックになった人の群れは説明をしている空港関係者に矢継ぎ早に甲高い声で罵声を浴びせる。
係員は一旦ロビーを退出したが、再び何やら紙切れを抱えて入室した。
我々も訳がわからないまでも、動物的本能で、列に並びこの紙切れを受け取った。
ようやく事態を冷静に受け止めることが出来た。
この便はやっぱり欠航で、本日は飛行機は飛ばない。
だからこの紙切れは近辺のホテルへ送迎するためのチケットだったのだ。
「明日?」私達はここで今自分たちの置かれた立場の不平等さに呆れ果て、無性に腹がたっていくが、こいつをぶつける所もなく、心身ともに疲れきってしまっていた。
私達は人々の波に身を任せ、誘導されるがままに、空港前で待っていたバスに乗り込んだ。
バスの中は勿論早口言葉の中国語が縦横無尽に頭上を飛びまわっている。
異国人4名はずっと下を向きながら、歯を食いしばっていた。
バスは欠航便乗客を上海機場賓館へと護送して暗闇に消え失せた。
部屋の鍵を渡され、この予期せぬ上海停泊に不安と苛立ちを募らせながら部屋になだれ込んだ。
部屋は小奇麗であったが、肝心のスーツケースは飛行機に積み込まれたまんまだそうで、今日は返してはくれないとのこと。
疲れきった体を風呂で癒そうにもタオルも着替えも洗面用具すらないのである。
そのうえに明日何時に飛べるという情報すら入ってこない。
中国だ。やっぱり中国なのだ。
いつ何時事態は急変するかもしれないときているから、私達は待機するしかしょうがない。
このホテルの周辺には何ぁーんにもない、商店も遊ぶところも一切無い、いわゆるホテル缶詰状態とはこういうことを言うのである。
あまりの状況におったまげてか、来るはずのないマンスリーが突如として私を訪問する。
すぐさま階下の売店で生理用品を購入し、重苦しい気分とお腹を抱えていた。
父と私は階下のラウンジで青島ビールを注文し飲んでいると、父はサンドイッチが食べたいなどと言い出す。
「何て言うねん?」と尋ねるが、極度の精神不安定とマンスリーの二重苦であった私の脳味噌は、安息日、日曜日、留守番電話の世界である。
通常私はマンスリー期間になると、脳の働きがお見事なまでに欠航となる。まるで今夜のように・・・・
「サンドイッチ」が「三明治」であることが普段なら出て来るはずが出てこない。
父はまたまた私に不信感を抱くのだったが、もうどうでもええ!の気分になっていた。

不安な一夜は明けた。
ナーバスな神経だったので、朝は老人のように4時あたりから眼が醒めていた。
朝食はバイキング形式の中華朝食で、饅頭(マントウ)と呼ばれる豚マン、あんマン、具なしマンの3種が並べられていたが、外見から一体どれが豚でどれがあんなどということが判らない。
私は食欲なんぞなかったが、父はごっそりと大皿に各種饅頭を取り揃え、ゆで玉子と朝粥までちゃっかりと自分の陣地に納めていた。
「元気なおっさんや!」と絶句。
父はこの3種の饅頭にたっぷりと醤油をかけて御満悦だったが、さすがの父もあんマンと醤油の取り合わせにはどうも
頷けないと見受けられた。
「大変なことになりましたねぇ」と4人は卓を囲み、今後の対策を相談した。
とりあえず、ABCトラベルの北京支社に一体私達は本当に飛ぶことが出来るのか?何時北京へ到着出来るのか、尋ねてみようとロビーから電話をかけたのだが、これが全く通じない。
ふとカレンダーに目をやると日曜日だ。「暢気に日曜日なんぞやってる場合かよっ!」である。
もうこうなっては、がっちりとスクラムを組んで、自力で北京まで乗り込まねばなるまい。
ということは私と彼女の拙い中国語だけが頼りである。
ふらぁーっと立ち眩みがした。
これではまるで個人旅行である。
朝早くから待機していたにも関わらず、民族大移動が始まったのは、お昼を少し過ぎてからだった。
2時頃になってようやく搭乗するに漕ぎついた。
丸1日、損をしたことになる。
何時に飛ぶということが判っていれば、この不運をラッキーに置き換えてそれなりに上海の街に繰り出すこともも出来たのである。
先発組を恨む気はないが、これではあまりに不公平過ぎるではないか?
同じ旅行代金では断然気が済まない。
精神的にも肉体的にもすっかり疲れきっていたのだから、にこにこと先発組に合流出来るはずはない。
だがようやく我々の本当の目的地、北京に降り立った時には幾分4人の怒りも静まっていた。
暫くしてこの4人の笑顔も再び引きつって、呆然と立ち尽くす。
到着ロビーには、心配そうに、申し訳なさそうにプラカードを持った出迎えの案内人が我々の到着を今か今かと首を長くして待っているものと思い込んでいたのだが、どこにも我々を待っている者などいないのである。
30分ほどそれでも我々は待ち続けたが、一向に熱烈歓迎のプラカードを持った案内人はやってこない。
「これって、お前らだけでホテルまで来い!」ってこと?
再び怒りを募らせる。
仮にも切断されたとは言え、我々はパッケージツアー客なのである。
こんなことが最初からわかっていれば、どうしてこんなマヌケなパッケージツアーなんぞに誰が参加するものか。
しかも初日には自由時間がたっぷり組み込まれていたのである。
我々の初日は恐怖の拘束時間だったし、翌日ももう半日以上が無駄になってしまっている。
何もかもが目茶苦茶だ。
あれだけの恐怖と不安と不便さを堪え忍んでやっとの思いで北京に到着したというのに、出迎えも来ないとは、天下のABCトラベルのすることか!
怒りに拍車がかかってゆくが、ここまでがっちりとスクラムを組んできた4人であるので、もう怖さというものがぶっ飛んでしまっていた。
もう、1分でも無駄に出来ないと、4人でタクシーに乗り込んで、チャイナワールド(中国大飯店)へと運んでもらった。
かなりな距離だったが日本円にして約1、500円ほどだった。
どうせまたホテルでトラブルのではないか?という予感はやっぱり的中した。
デスクのお姉さんは、案の定の早口言葉でまくしたてる。
事の成り行きを中国語で説明するなんぞ困難甚だしい、ここは国際ホテルだと、私はお姉さんに「英語を喋るか?」と聞いてみた。
「OK!」だったので、ほっとしながら、英語に切り替えて、昨日からの事情を説明すると、ようやく納得したみたいで、鍵をもらうことに成功した。
時計を見るともう4時半ではないか。
くたくたであったが、荷物を置き、すぐに北京の繁華街、王府井、天安門、新華書店へ行こうと父に提案してみたが、父はさすがにくたびれていて、ゆっくり風呂に入って休みたいと言う。
無理も無い話だ。初めての海外旅行で、初めての飛行機で思いっきり緊張した後に、あんな目にあったのだからと、ここは父の意見を尊重して、無理に連れ出すのは諦めた。
結局3人でタクシーに乗り込んで天安門へと向かった。
とてつもなく道路は広く、見渡す限りの自転車である。
上海とは打って変わって気温はかなり低く、大陸特有の底冷えに震えながらも、私達は天安門広場に到着した。
毛沢東を始めとする歴代の首相が上がったあの大舞台に立ち、目の前に大きく広がる広場を眺めながら、ここ中国の領土の広大さを感じない訳にはいかなかった。
故宮は時間的に間に合わず、見送るしかなかった。
天安門から王府井までは散歩をしながら歩いた。
この王府井という繁華街は日本で言うところの銀座といった所である。
おのぼりさんを始めとする観光客や地元の人々でごった返していた。
私は二人と別れ、1時間後に落ち合う約束をして、新華書店に入っていった。
奇麗な日本の本屋さんとは随分違って、乱雑にうず高く無造作に本は並んでいたが、その量は凄まじいものだった。
とにかく私には時間がない。だだっ広い店内をたった1時間で回らねばならない。
まずはここでの本の購入方法について驚いた。
各ジャンルのコーナーには店員(服務員)が配置され、お客は「あれ、取って!」という具合に指をさす。
すると店員はその本を棚から抜き取り、ポーンと机の上に投げつける。
(こらぁ!書物を投げるとは何たる無礼!)とムカつく気持ちをこらえながら、その本をペラペラめくる。
いらない場合はそのままにしておくのだが、欲しい場合には、その店員に「これ、頂戴!」と告げる。
普通ならここで、金銭の受け渡しをして、さようなら出来るはずが、店員はそこで何やら複写の紙切れに値段や数量、なんぞを記入してその複写の方をお客に手渡す。
その後にお客は会計所、所謂レジへとその複写を持ってゆき、そこで始めて代金を支払う。
すると会計員はその複写に領収したよ!という判をポーンと押してその領収印付きの複写を再び返してくれる。
そしてお客は再びその本が置かれてあった場所に戻って店員に領収印付きの複写を見せて初めて本が手に入るという寸法である。
であるから、各ジャンルでいろんな本が欲しいときなんかは大変なことになる。
いちいち各売り場を覚えていなければならないのは、全く時間と労力の無駄なことこの上ない。
せっかちな日本でこんなシステムなんぞを実施すればたちまち暴動が始まってしまうだろう。
大陸ならではのノンビリしたシステムである。
しかも店員はすべてが公務員であるからして、当然勤労意欲なんぞを持ち合わせてはいない。
スチュワーデスと同様、笑顔やサービスなんかは存在しない世界だった。
笑顔とサービス過剰の日本からやってくると度肝を抜くことになる。
彼等からすればごく当たり前のことなのかもしれないが、お客がいようがいまいが、お構い無しにべちゃくちゃ喋って遊んでいる。
「あっ、あのぉー、あのぉー!すみません・・・・あの本取ってくれますか?」とお客が遠慮しながら店員に話し掛ける。
やっとこ自分が呼ばれていることに気が付いた店員は、見るからに面倒くさそうに、嫌な顔をしながらポーンと本を投げる。
これには、全くムカつく。
私はその場で、その女をぶっ飛ばしてやりたかった。
それでも私は抱え込めるだけの本を買い込んで、ひとまずは満足していた。
これがここにやってきた一番の理由だったからである。
待ち合わせの場所で夫婦組と合流し、3人は名残惜しいたった2時間ほどの超短時間市内観光を終えてホテルに戻った。

部屋に戻ると、父は一風呂浴びてリフレッシュしたらしく、元気はつらつ老人に戻っていた。
私達が天安門へと出掛けている間にABCトラベルの北京支店の支店長代理とやらがやってきて、父に済まないと謝り、あとの3名様にお会いするために又来ますと言い残して去っていったそうだ。
しばらくするとこの支店長代理とやらがやってきた。
私はここぞとばかりに思い存分の皮肉をたっぷりと彼の頭にふりかけた。
父は(もう辞めといてやれや!この人が悪いんちゃうねんから・・・豊田家の品格が落ちる)とでも言いたげな顔で私のことを見ていた。
彼は「皆様にお食事の用意が出来ておりますから・・」とリピートするのだが、私はたった今戻ったばかりで、本以外の買い物なんぞしていない。
ショッピングアーケードを覗いてみたいし、疲れだって癒したい。
とても先発組に交じってノンビリと夕食なんて気分ではない。あちらの方だって気を使うだろうが・・・
(何考えてるねん!このおっさん。)すぐさま私は、夕食は自分たちでやりますからと突っぱねた。
夫婦組も「自分たちで勝手にやります!」と言って突っぱねたそうだ。
やはり怒り狂っていたのは何も私だけではなかったようだ。
困り切った顔をした支店長代理とやらは、とぼとぼと背中を丸めて帰っていった。
しかし彼の困り切った顔なんかは、昨夜の我々の困り切った顔に比べると、遥かに余裕のある困り切った顔だった。

父はお留守番が退屈だったのか、すぐに「ちょーっとブラブラして来るわぁ」と、出掛けようとした。
私もどうせ言葉も分からないのだから、ブラブラとホテル内を散歩でもしてすぐに帰ってくるだろうと、私はその間にお風呂に入ってリフレッシュした後、父を連れてレストランで食事をしようととっさに考えたので、「はやく帰っておいでよ!」と父を見送った。
私はようやくお風呂にありつくことが出来、ここにスーツケースがあることに普通なら当たり前のことが心底嬉しく感じ、長旅の疲れを癒して極度の緊張感がほぐれていくのを感じていた。
しばらくしたが、すぐに戻ってくるはずの父がなかなか戻ってこない。
一緒に食事をしようと思っているのに一体どこをほっつき歩いているんや?
鍵は1つしか手渡されていなかったので、こういう時にはほとほと困る。
しかし私にも限界があると、私は父を探す傍ら、地下のショッピングセンターへと降りていた。
ここはとてつもなく広い豪華ホテルで、隣のビルと地下で繋がっていて、殆ど迷路に近い。
一旦迷い込むとホテルのロビーに出る方向がさっぱり判らない。
私自身ですら、迷い込んで、警備員にホテルのロビーは何処か?と尋ねてやっとのことでホテルに戻りついたくらいである。
とにかく鍵が1つであるから、父を締め出す訳にはいかないので、お土産をそそくさと買い込んで急いで戻ってみたがやはり近辺に父の消息は見当たらない。
ホテル内のレストラン、ラウンジ、お土産ショップと廻ってみたがやっぱり見当たらない。
仕方なく部屋で待つこと1時間。
一体何処まで行ったんやろ?言葉も分からんのに・・・
2時間が過ぎる。
私は仕方なく、ルームサービスで一人で食事をした。
時計を見るともう10時を過ぎている。
これは余りにも遅い。遅すぎる。
腹立ちが段々と不安と恐怖に入れ替わってゆく。
ひょっとして迷子になって補導されたのか?父は中国語が皆目わからない。
緑の制服のおまわりさん達に囲まれて、可哀相にあたふたしているのではないだろうか?
気のいい日本人老人は誘拐されて埒致されているのではなかろうか?
金持ちイコール日本人ってなもんで、身包み剥がされてバカボコに殴られ、道路で伸びているのではなかろうか?
外は真っ暗で氷点下である。
悪いことばかりが浮かんでくる。
私はホテルのフロントに電話を入れて捜査して貰うように言ってみたが、幼児が行方不明になったのとは訳が違う。
ホテルは真剣に取り合ってはくれない。
昨日散々な目に遭ったというのに、今度は父である。
「旅は一人に限る!」この時切実にそう思った。
12時を目前にして、部屋のチャイムが鳴った。
警察か??!と、すぐさまドアを開けると赤い顔をした呆け老人が立っていた。
私はほっとしたのと怒りと同時に呆れ果ててしまった。
この老人は酔っ払っている。
あほう!どれだけ心配したかわかってるのん?何処へ行ってたんや?と、怒ってみたが「えへへ、道に迷ってなぁ。外は寒いぞぉー!」老人はすたこらさっさとベッドに潜り込み、5分もしないうちにイビキを高々とかいていた。
何と幸せな老人だ!と私は言葉を失った。

翌朝、私は父に昨夜の事を問いただしてみた。
まずはショッピングアーケードを歩いているうちにビールが飲みたくなった父はビールだけ軽く一杯飲もうと大胆不敵にもレストランに入っていった。
席につくとさっぱり訳の分からない中国語のメニューが手渡された。
碑酒がビールということは教えてあったので、それは簡単だった。
だが彼はここでおつまみも欲しいななどと欲を出す。
すると猪がブタだということを思い出して、メニューをトントンと指差したのだった。
ウエイトレスのお姉ちゃんはちょいと不思議そうな顔をしながらも彼の注文の品を持って現れ、2本のビールと2皿の豚の炒めもの(全く同じ物)を並べて去っていったそうだ。
それでも父とすれば初めての海外旅行で中国語も判らないのにレストランで一人で豚の炒めものとビールが通じたということでどえらく気が大きくなってしまった。
超ご機嫌となった彼がホテルに戻ろうとしていると、何処からかカラオケが聞こえてくる。
カラオケ狂の父としてはここですんなりと立ち去ることなど不可能に等しい。
ここが中国であることもすっかり忘れ、アルコールの勢いでもって、音のする発信源へと夢遊病者のように進んで行くと、カラオケ・ラウンジが現れた。
ここのお店のママさんが「いらっしゃぁーい!」と流暢な日本語を喋ってしまったから、もう父の出番である。
娘の心配を他所に、父は唄い狂っていたのである。
勿論日本人観光客は行く先々でお金を落としていってくれる絶好のお客様であるから、お店もおだてるだけおだてて、歌わせるだけ歌わせる。
そんなことをいい歳こいた老人が判らぬ訳はないのだろうが、父としては最高の夜だったみたいである。
存分に唄い狂った後、店から出て迷路をさまよい、やっとの思いで千鳥足で部屋まで辿り着いたということだった。
能天気というか恐ろしい老人である。
まさか言葉の判らないレストランで食事をして、ちゃっかりとカラオケまで歌っていたとは、さすがの私もこれには参った。
信じられないと思う反面、私にもこの父の血が流れていることに苦笑した。
「今晩も行くぞ!」と調子に乗る父に、私は淡々とお説教をするのだが、私と同様に人の話など聞かない性格であることを私は知っていた。

ようやく先発と後発組が再会を果たして一緒に観光となった。
万里の長城や明の十三陵、中国観光の見せ場である。
やはり中国に来てここを見ない訳にはいかない。
明の十三陵に立ち寄り、そのひんやりした古代の墓、そして色落ちせずに美しいままに残された調度品の数々に目を奪われていた。
中国の昔の女性は「纏足」というしきたりがあり、一種の美徳とされていた。
知ってはいたのだが、そのあまりにもの小ささに我のでかい足に目を落としてしまった。
念願であった万里の長城にバスは進んで行く。
私達が到着したのは「八達嶺」という観光客のために所謂整備が施された所であった。
実際は北は山海関より、西は嘉烙関までの約6000キロメートルの距離である。
宇宙から見える唯一の建物である。
こんなとてつもないもんを作り上げた始皇帝の凄まじき執念と、計り知れない労働力、広大にひろがる大地にただただ感動するばかりである。
写真やTVなどで何度かお目にはかかているが、実際の延々と山肌をくれらせる長城に立ち、感無量であった。
しかしこの感動とは裏腹に、悲しすぎるほどの観光地でもある。
いかさま商品を並べる露店商が目立ち、特に日本人観光客と見れば「千円!千円!」とうるさくつきまとう。
この様子を始皇帝が見たらどう思うのだろうか・・・と、ふとそんなことを考えていた。

最後の晩餐は北京ダックを囲んでの和やかな一時だった。
9名が全員揃って自己紹介をしたり写真を撮ったり、住所の交換もして、盛り上がった。
すっかり気分が向上した父は再びカラオケに行ってくると出向いて行くのを見送った。

翌日は9名全員が切断されることなく、無事に伊丹空港に到着した。
心配していた母に旅の一部始終を話して聞かせると、母は仰け反りかえって大笑いする。
「お父さんなんか連れて行くからや!」と同情してくれた。
あれだけ海外旅行に批判的だった父も相当楽しかったみたいである。
会うたびに話は中国の話題となっていた。
「又行くぞ!」と暇を見付けてはパンフレットを集めている。

私は今回の一件に関して泣き寝入りは嫌であったので、文句だけでも言ってやろうとABCトラベルを訪ねていった。
するといち早く情報が入っていたのかして、既に用意されていた袋を持って係りの人が応対した。
どうも大変申し訳ございませんでした。とその袋を手渡たされた。
中を覗いてみると、3万円の返金だった。
訪ねてみるもんだな。さすが天下のABCトラベルや!と機嫌はすっかりよくなった。
実にちゃかりしている。

私にとってはこの恐怖のどっきりツアーで、体験したことが後々役にたつものとなっている。
多少のことでは動じなくなったとういうか肝が座ったというか・・・
中国語についてはさっぱりだったので、父からの不信感の汚名挽回を図る為にも、帰国後しばらく中国語に真剣に取り組んで中国語検定試験に挑戦し、合格を果たした。
半年後、私は上海までの船の旅を挙行した。
やはりここでもいくつかのドッキリ談話があるが、それはまたの機会に残しておこう。
そしてまた機会があれば父と共に旅がしたいななどと懲りずに思っている今日このごろである。





ちんすこう

パックツアーと呼ばれる旅行にはツアー・コンダクターという所謂ツアコンが付き物である。
しかしこのツアコンの下にも子ツアコンがいることを御存知だろうか?
私は昔から、友達同士の旅の際には、この私設ツアコンの役が任命されていた。
別段自分から立候補知たのではなかったのだが、結構、人の面倒をみるのが好きな質だったので、時刻表で色々調べたり、宿泊の手配、スケジュル表の作成など、所謂幹事さんの仕事を楽しんでいた。
迅速、丁寧、几帳面が売り物の私であったので、これは適職だったのかもしれない。
だが、幾度と経験を積んでいくうちに、これはかなりな忍耐との戦いであることに気が付いた。
とかく何ぁーんにもしない奴等に限って文句を垂れるのである。
それに帰宅後は(一体私は何をしに行ったのだろう?)と、旅に酔いしれている余裕などなく、ただただ疲れに行って帰ってきたという状態となってしまうのだ。
私はある時を機会に、この役割を辞任し、のんびりゆっくりと楽しむ一人旅指向に変っていった。

ある飲み屋さんでアルバイトしていた頃の話である。
ここは店長を除く全てが女性従業員だった。
大奥のような女の職場では何かと問題が絶えない。
陰の悪口真っ盛りのロケーションなのであったが、私は幸いにも年令が彼女たちから幾分若かったせいで、混乱の渦中に放り込まれることはなかったのだ。
そてその職場で、私は「花子」さんと「夢子」さんの二人に出会った。

花子さんは夫と、社会人になる息子と大学生の息子、そして高校生の娘がいて、大学生の息子の仕送りで大変だとここにパートにやってきた。
以前、喫茶店を経営していた元ママさんであるので、客のあしらい方が実に上手く、やってくるおっちゃんたちにとても人気があった。
この店はカウンターを囲んで家庭料理の一品料理をおつまみにしながら、お酒を飲むといった立ち飲み屋さんであったが、何か暗い立ち飲み屋のイメージをゴロリと変えた、いわばナウイ立ち飲み屋さんだった。
この店で唯一調理師免許を持っている彼女は、お店の花板さんと持ち上げられ、彼女の方もそう呼ばれることを十分に喜んでいた。
しかし、こういった人気者はこんな大奥ではジェラシーやねたみの的になる。
お歳の割には似合わないすんごい若作りをされているのだが、お店入りする前にダイエーでどっさりと買い込んだ安売りのラーメンや大根の葉っぱがビニールの袋から飛び出しているところが、やけに所帯じみていて悲しい。

一方の夢子さんは随分前に離婚をして、母と二人暮らし。
ここのお店だけでは生活がかなりしんどいのでは?と、思いきや、しっかりちゃっかり妻子のある男性とお付き合いをしていて、毎月ちゃんと報酬なるものを頂いているそうで、生活には困っていない。
いつも豪快に人に奢ってあげたりしていた。
彼女の雰囲気と体型から「ムーミン・ママ」と名づけられたように、性格はおっとりしていて、誰とでも隔たりなく付き合っていける、このお店においては潤滑剤的存在だった。
ぼぉーっとしていて、いつも信じられないような失敗をやらかしてしまう。
あーあー、手伝ってやらなくちゃ!助けてあげなくちゃ!と、不思議に憎めない、男性の目からすればそれはそれは可愛いおばちゃんだろう。
そんなある日のことだった。

夢子さんが、「とよちゃぁーん、私ね、長いこと旅行なんてしてないのよ。どこかゆっくりと2泊くらいで、美味しいもん食べて飲み明かしたいわねぇ」と言い寄ってきた。
根っからの旅行好きの私であったので、「そうですねぇ、一度行きたいですねぇ」と、来来月にイングランド一人旅を控えていた私ではあったが、すぐさま頭の中のソロバンを弾いてしまったのが、そもそもの間違いの始まりであった。
頭の中にインプットされていた私の家計簿より、何とか5万円ぐらいなら?という数字が捻出されたので「5万円以内やったら、何とかOKですから、探してみましょか?」などと、個人旅行ならとんでもない話であるが、時期はずれならパッケージツアーで結構いいものがあるだろうと新聞や旅行会社の店頭パンフレットの収集を始め、とうとう「どっきり沖縄、二泊三日、3万9千8百円!食事、観光付」などという素晴らしいつツアーを探し当ててしまった。
夢子さんに報告すると、迷うことなしに可決し、ここに花子さんまで賛同してしまった。
かくして「3匹沖縄を行く、39、800円ツアー」は、着々と実現に向かって賽は投げられたのだった。
そんな折り、夢子さんが「ねぇ、とよちゃぁーん、お小遣いどのくらい持って行くのん?」と聞くので、「あれ?聞いてはれへんかったんですか?私の限界は5万円やから、小遣いは1万円ほどやわ、来来月に旅行を控えてるから、貧乏旅行ですわ。」と、少々寂しいかいな?とは思いながらも、そう答えた。
「そうやんねぇ、国内旅行やもんねぇ、そんなに持って行く必要あれへんやんねぇ。そやけど、花子さんったら、10万円はお小遣いいるやろって言いはるんよ!旅行代金もまだ払わんと、あたしに立て替えといてって言うてはるのに、何考えてはるんやろうねっ!」
「まぁ、ええですやん!人が幾ら持って行こうが、私は1万しか出ませんわ」と答えると、夢子さんはほっとした様子で、私の顔を見る度に「とよちゃぁーん、楽しみやねぇー」と満面の微笑みを浮かべる彼女を、その時は心から可愛い人やなぁと思っていた。

さて、いくらパート・アルバイトとは言えども一度に3人が店を休むというのは、他の従業員にとっては迷惑この上ないお話だ。
こんな状況下、各々に1箱づつ、つまり10名いるので10箱の菓子折りを買って帰ろうと決めたのだった。
一人700円と計算していた私に、2人して「そりゃぁ、とよちゃん、失礼だわよ!やっぱり一人最低千円は出さなくっちゃ!」と攻撃されてしまって「そうですかねぇ。」と承諾した私だった。

沖縄に向かって出発当日の清々しい朝を迎えた。
駅のホームにて待ち合わせをしていた。
取りあえず、プラットホームでまずは最初の硬直状態に陥ってしまった。
「とよちゃぁーん、お天気になって良かったわねっ!」と、ニコニコと待っていた二人のいでたちに、くるりと踵をかえして「いってらしゃぁーい!」と、立ち去りたい心境だった。
先ずは花子さん。
年令にそぐわない若作りというのは前述した通りなのであるが、若い服装というのがセンスがいいということにはならない。
少しばかり勘違いをされている。
中学生が着るかも?しれない様な実に幼稚なトレーナーに黒のスパッツ。
このスパッツが素晴らしく足首の所がハートマークに切り貫かれていて、おまけに鈴までがついている。
我家の猫のミィーだってこんなもんは着ない。
太陽も出ていないのにかけている黒のダテサングラス、ビニールのボストンバック。
30年前の青春カムバック・スタイルである。
あまり傍に寄りたくない。

一方の夢子さんは真っ白なロングのタイトスカートにハイヒールで荷物は殆どなし。
朝の早ようから、これから夜のお勤めファッションである。
夢子さんは言う「とよちゃぁーん、あまりにもウキウキしてたからマンスリーになっちゃったわよ!」
これから沖縄まで観光をする人間がマンスリーにも関わらず、ハイヒールに白のロングタイトスカートとは・・・
やっぱりこのおばさんは何か1本抜けている。

この二人のちぐはぐな装いを目の当たりにして、私はある種の不吉な予感が背筋をツタァーっと伝って行くのを感じていた。
この不吉な予感はこの先ずんずんと現実に向かって驀進していくのである。

空港に着いて、搭乗チケットを受け取り、チェックインしようとした時、花子さんが「あっ、私、荷物預けなくっちゃ!」とカウンターに駆け寄る。
誰が見てもぺったんこのビニールのバッグである。
「これなら大丈夫ですよ!機内に持ち込んだ方が安全だし、時間も無駄にならないし・・・」と私はアドバイスしたのだが、花子さんは私の言う事を聞いてくれない。
この人は完璧に大昔に行ったハワイ旅行と勘違いされいる!沖縄は日本なんだよ!誰か教えてやっとくれ!
このペっタンコのビニールバッグ1つの為に、向こうの空港でツアー客が足止めを食らうかもしれないなんてことを考えてはいないのだ。
だがまぁ、仕方ない。預けたいなら預けたらいい。
私だってお客なんだ。ツアコンではないんだ!と言い聞かせていた。

沖縄国際空港に無事到着。
ツアーメンバーは60名弱の団体だった。
もたもたせずに、すぐに到着ロビーに駆けつけたいところだが、ターンテーブルにて例の花子さんのビニールバックが出てくるのをひたすら待つ。
やっと出てきて、いざロビーに!と思っていると、今度は夢子さんが「とよちゃぁん、おしっこ行きたいねん」と、こうだ。
(何で、機内か、ビニールバックを待っている間にでもちょいと行っとかへんかってん!)と、ぐっと込み上がってくる感情を抑えていた。
案の上、到着ロビーでは、美しいツアコンさんがみんなの点呼を終え、なかなか現れない「豊田様御一行」を探し、「とよださまぁー、とよださまぁ」と、首から青筋を立てて叫んでおられた。
「どーもすいません、三人、ちゃんとおります!」を頭を下げながら、駆け足の私の後を付いてくる二人は、まるでどっかの「親分さん」のように肩で風を切りながら悠々と歩いてくる。
来るべきではなかった!と、後悔する。

ツアー・バスに乗り込んでいざ、観光が始まった。
朱礼の門に到着した私達は、ここでツアコンさんよりパックツアー恒例の記念写真撮影を知らされる。
元来、私とて、この手の団体行動など大の苦手である。
だがしかし、大人としての分別はわきまえているつもりである。
何せ安いのだから、多少のことは我慢せねばならない。
パクツアーに参加をすると決めれば、いい子ちゃんを演じることに徹しようとする。
ところがまたまた、この花子さんと夢子さんがごね出した。
記念写真なんぞいらないから写さないという。
そんなもの私だっていらない。
だが、こいつが観光に組み込まれている以上、素通りは出来ないのである。
ツアコンさんが困った様子で一応形式だけなんですから、と二人を説得するが、二人とも買わないのに写す必要はないと拒否する。
あとの団体さんはもうすでにきちんと整列して、私達を待っている。
全く大人げない。もっと大人になりなさい!と言いたいのを堪えながら、私は何とか二人を説得して「買わなくても、一応写しましょう」と二人を引っ張って行った。
やれやれ、先が思いやられるなぁ。と私は大きくため息をついた。
観光が続行され、各停車地に降り立つと俄然この二人のおばさんは目を輝かせていた。
観光地よりお土産ショップから離れようとしないのである。
普段はダレダレとだれながら歩いているのに、お土産ショップの時間になると俄然水を得たピチピチのお魚になる。
すんげぇもんやなぁと、感心してしまう私だった。

最後にバスは私達の本日のお宿の前で団体一行を降ろした。
降ろされて豪華ホテルであるはずのお宿を見た途端、第二の硬直状態がやってきた。
いろはトラベルのパンフレットで見ていた今夜のお宿というのは、それはそれは素晴らしい写真が載っていたからだ。
確かにこの宿である。しかし、何か特殊撮影でも施していたのか、パンフレットで見ていたものはもっともっと美しくて
広くて、快適そのものであったはずが、狭くて汚くて「あっ!全然違う!騙された!やったわねっ!いろはトラベルめっ!」って感じである。
これを写したカメラマンというのはすごい腕の持ち主だろう。
オスカーで特殊撮影賞を受賞できそうだ。
パンフレットでは海岸があたかもすぐに歩いていけそうに写しているのだが、海岸ははるか遠くで、まわりには何もない。
ここはたとえて言えば、アメリカなんかで言うドライヴ・イン・モーテルで、交通量の多い、でかい国道に隣接し、お客はみんな車でやってくるようなロケーションだ。
リゾートホテルとは間違っても言い難い。
だがこの写真は実に上手く写っている。
団体客の誰もが、不思議そうに首をかしげ、「あれぇ?違うぞぉー!」ってな顔をしていた中を、ツアコンさんは皆に鍵を渡すと
そそくさと逃げるように去っていった。
まぁ、39、800円なのである。今日はこんなところでも明日はきっと素晴らしいホテルのはずだと、ここは我慢。
部屋に案内される。
私達は3人で1部屋を申し込んでいたので、中に入ると2つのベッドと畳のところにせんべい布団が置いてあった。
ここはやっぱりジャンケンで決めたいところだが、年功序列を尊重して、花子さんと夢子さんにベッドを譲って私は畳の上のせんべい布団を陣地とした。
写真でのバルコニーは広々としていたのだが、本物はえらくせせこましい。
だがこのバルコニーのテーブルを囲んでジンギスカン料理で宴会である。
アルコールは不思議な潤滑油である。今日起こったイライラの数々が奇麗に洗い流されて、3人でどえらく盛り上がって、職場の悪口に華を咲かせていた。
女という生き物は何か悪口を言っていると俄然元気が出てくるものである。
やれやれ、お疲れ様でしたぁ!と私はせんべい布団の上に横たわった。

沖縄での初めての朝を迎えた。
迎えのバスは私達を待っていた。
「沖縄記念公園」「民族村」「米軍キャンプ」「ガラス工房」「かりゆしビーチ」などと様々な観光名所をバスは小刻みに停車してゆく。
そして花子さんと夢子さんのペッタンコだった鞄が見るも無残な姿へと変形してゆくのである。
どこに降り立っても、この二人は名所を楽しむなんてことは二の次である。
彼女たちの頭の中には「お土産」のことしかなかったのだ。
停車時間の殆どをお土産ショップで過ごされていた。
勿論のことながら、時間に関してはルーズなこと、この上ない。
ガイドさんやツアコンさんが、「1時に出発しますので、それまでにバスに戻ってきて下さい」となる。
例えばその制限時間が1時間だとすると、彼女たちはこの1時間という時間を目一杯お買い物に費やす。
子ツアコンである私が「もう時間だから戻りましょう」と声をかけてから、はっと我に返ったように「おしっこ休憩」を取るのである。
ついにムカついてしまった子ツアコンは「まずは、おしっこを済ませてから、お買い物したらどうですか?」と説教するのだが、うるさそうにフンフン。馬の耳に念仏とはよく言ったものである。
迷惑この上ない「豊田様御一行」は、バスの出発を待つ皆から、白い目で見られていることなど一向にお構いなし。
あくまでも自分たちは「39800円を支払って、ツアーに参加してやったお客様、私はお客様なのよ!」ってな観念を持っている様に見受けられた。
しかしいい歳こいたおばさんが「遅れてすみません」ぐらい言えないのだろうか?
「遅れてすみません」、これは団体パック・ツアーにおいて、覚えておかねばならない重要単語なのである。

イライラはやっぱり今日も積み重なっていく。
そんな私に、はたまた第三の硬直状態が訪れた。
例の如く「30分にバスに戻って下さぁーい!」のツアコンさんだった。
5分前よりバスの前で二人の帰りを待っていたが、やはりなかなか戻ってくる気配がない。
「お土産ショップだ!」と、すぐさま私は引き返して店内を探す。
予感通り、花子さんはジュエリー売り場で物色中だった。
「ああ、花子さん、もう時間ですよ。あれ?夢子さんは?」
「え?知らんでぇ、おトイレちゃうのん?」
「そーですね、覗いてみますわ!」
普通ならそこで花子さんも一緒に、夢子捜索に協力してくれてもよさそうなものなのに、全くジュエリー売り場から離れようとはしない。
おトイレを覗いてみたが、夢子さんの姿がない。
(一体どこをほっつき歩いているんや?迷子になったんやろか?)
時計に目をやると、もう既に40分。
途方にくれながら、捜査は続く。
もうこれはツアコンさんに連絡して、場内アナウンスをしてもらうほかないと、諦めかけていた矢先、ふと店内に設けられていた大衆食堂で夢子さんはのんびりとタバコをふかせながら、ビールを飲んでいるではないか!
さすがの私も仰け反りかえってしまった。
ぐっと沸き上がってくる怒りを静め、「夢子さん、ここにいてはったんですか、心配しましたよぉー!ほらぁ、もう45分ですよ。
みんなが待っていますからバスに戻りましょう」と促がすと、「あらぁ、とよちゃぁーん、喉が渇いて仕方なかっってん。とよちゃんも飲んでいったらぁ?わたし奢ってあげるから!」
「また今度奢ってください。それよりも、みんなが待っていますからぁ、早く早く!」
夢子さんはようやく重たい腰をよっこらしょっと上げてくれた。
私はとりあえず、ガイドさんやツアコンさんに夢子発見を告げようと、足早に出口へと向かい、バスに戻る道を急いだ。
この時しっかと私は聞いたのである。
「せわしないねん、あの子!」
ん?あの子?あの子って私のことを言うてんの?
ここで、私ははっきりとこの夢子さんの正体を知ったのである。
(旅行に行きたいねんと言い寄ってきた時、一体誰が39800円と言う破格値ツアーを見付けてやったんや?、飛行機に乗ったことがないから飛行機にも乗ってみたいねんと言ったんを誰が飛行機に乗せてやったんや?こんな常識もわきまえないおばさん二人の私設ツアコンをかって出た為に私の「豊田様御一行」という名誉に傷をつけたんわ、どこの誰や?ビールを飲むのは勝手やで!そやけど今度おしっこって言うたら、どうなるんかわかっとるんやろな!もう、勝手にせい!)と、殆ど無口になってしまった。
後ろから夢子さんが叫ぶ。「とよちゃぁん、足が痛いのよぉー」
(誰がハイヒールなんか履いてきたんや?足が痛いのやったら、ちょろちょろすなーっ!)

女3人というのは全くやっかいな人間関係を形成する。
A子さん、B子さん、C子さんと3人がいたとしよう。
A子さんとB子さんが大変仲がよく、C子さんというのは人畜無害の無印商品のようないわば、付録的存在となるのが世の常である。
しかし、何か事あるとB子さんとC子さんがくっついてしまって、今度はA子さんが付録の道へと転落する。
この時以来、立場がおかしくなり、私は花子さんと夢子さんのオマケの道へと向かっていった。
花子さんと夢子さんががっちりとスクラムを組んでおばちゃんパワーでもって、私をはみごにした。
願ってもないチャンスであった。
こちらとしても、もうこれ以上お守りはゴメンこうむりたっかからだ。
やれやれとは思ってはみたが、「豊田様御一行」と名乗る限り、御先祖様のためにも下手なことは出来ない。
腹が立って、お客様を残したまんま逃げ去ったツアコンなど聞いたことがない。
大阪の土を踏むまでは我慢せねば・・・
ここは心機一転笑顔を作り「さぁて、そろそろ職場の皆さんにあげるお土産でも買いましょうか?」と言うとお一人700円と提案した私にいちゃもんを付けた花子、夢子コンビが「とよちゃぁん、一人千円も多いわなぁ。」
「一人500円ぐらいなもんでええで」「あら、さっき300円の菓子折り、見たでぇ、あんなんでええやんか!」ときたもんだ。
一人700円じゃぁ失礼だ!修学旅行ちゃうねんからなどと誰が言うたんや?である。
ったく、女心と秋の沖縄だ。
「じゃぁとりあえず、3箱が入るスペースだけは残しておいて下さいね、私は4箱持ちますから・・・」すると夢子さんは「そんなん、今から持つ必要あれへんやん、空港受け取りのやつ頼もうよ」と通販システムの導入となった。
実に味気ない話である。
パンフレットをめくっていくが、花子さんの思惑に反して、一番安いものでも500円からの菓子折りしかなかったが、結局はこの500円のちんすこうが職場の皆さんへのお土産として選ばれた。

2日目の観光が無事に済んで、私はほっとしていた。
予感は的中し、2日目のホテルはビーチ前の素晴らしい超デラックスホテルであった。私はとにかく疲れていたので、風呂に入り、ビールを飲み干し、フランス料理のディナーを食べ、明日の帰宅を心待ちにしていた。
この場に及んでも、元気なおばさん二人組は階下のお土産ショップを閉店の時間までウロついていた。

とうとう「3匹沖縄を行く、39800円」は、ようやく最終日を迎えた。
誰が雨おばさんなのか知らないが、本日の天候はすこぶる悪い。台風の島、沖縄である。
台風がやってくるらしく、雨がポツリポツリと降ってきた。
「花子さん、夢子さん、折畳みの傘は持ってきましたかぁ?」と、聞いてはみたが、持ってくるはずはない。
「大阪は私達が戻る頃から雨になりそうですよ。どこかで安いビニール傘を買っておかれるほうがいいですよ」と、親切にアドバイスを与えたのだが、「そーやねぇー」と、殆ど聞いていない。
バスに乗り込んだが、雨脚は酷くなってきた。
ひめゆりの塔、首里城へと進んで行くが、沖縄ももう3日目だ、吐き気がするほどにお土産は見飽きてしまったし、私は各名所を見るだけであとはバスに戻って待つことにした。
そんな中でも花子さんと夢子さんは、ひたすらお土産物色へと向かう、びしょ濡れになりながら・・・凄まじき根性に脱帽。
戻ってきた彼女たちに「傘はありましたか?」と、聞いたが「ああ、忘れてたぁ」である。
もう勝手にせい!である。
二人とも一体幾らお小遣いを持ってきたのだろうか?
計り知れないくらいに、彼女たちの鞄は雪だるまの如く肥満状態だった。

那覇空港に到着した。
荷物をバスから降ろし、二人の姿が視界を捕らえ、再び私は第四番目の硬直状態に縛られてしまう。
彼女たちの姿はまるで戦時中の買い出しルックであった。
とにかく一緒に傍にいるのが恥ずかしかった。
私は戦争を知らない子供達なのである。
ここで、通販で購入申込をしていた職場のお土産、ちんすこう10箱が私たちを待ち受けていた。
「はい、花子さん、3箱!はい、夢子さん、3箱ねっ!」
突然の持ち分ちんすこうの菓子折り3箱に驚く二人。
「何やのん?これ」「何を言うてはるんですかぁ?職場のお土産ですやんか!私は4箱持ちますからねっ」
「そんなん、わたしの鞄には入れへんやん!」
「そんなん無理やわ!こんなもん、入れへん!」
こんなもんときたか・・・・
「入らへんと言われても、どうするんですかぁ・・・」
(歩けもせんほどバカスカお土産買ってからに!肝心の職場のお土産は持たれへんちゅうんかいな?)
二人の狼の様な4つの眼が光って、キャスター付きの私の鞄に注目する。
全く信じられないことに、結局私はこのちんすこう10箱を運ばされるはめとなってしまった。
子ツアコンは本当に体力のいる仕事である。荷物持ちまでせねばならないのか?
おまけに私設子ツアコンは時々カメラマンにもならねばならない。
殆ど自分の写っていない写真の数々に愕然となったことは依然にも充分承知していた。

飛行機は無事に大阪に着いた。
雨は止んでいたが、いつ降り出しても可笑しくない空模様の京橋の駅に到着。
花子さんは、すぐそこの職場までこの一際どでかい荷物をひきずっては歩けないと言い出し、それに雨が降ったら大変!とばかりにそそくさと自宅へ向かう列車に向かい「さようならぁー!」
眼が点になって佇んでいる私に、今度は夢子さんまでもが「あたしはタクシーで帰るわねっ!」と逃げようとするのを私はもう許すことが出来なかった。
夢子さんの腕をしっかり捕らえて「それって大人げないですよっ!この10個のちんすこうを私一人で持っていけってことなんですか?それとも全部私にくれるんですか?お店は目と鼻の先ですやんか!3人無事に帰ってきましたってちらりとでも顔を出して、みなさんに休暇中のお詫びをしながら、申し訳なさそうにお土産を渡すっていうのが常識やないですかっ!」と爆弾をとうとう投下してしまったのだ。
夢子さんは私のパワーに圧倒されて、しぶしぶ付いてきた。
お店に入り、「ただいまぁ!本当にごめんなさいね!」
みんなはにこやかに「お帰りぃー、楽しかったぁ?」とお義理ながらも言ってくれた。
ここで、お店に行くのもしぶり、疲れた疲れたと、逃げ帰ろうとしていた夢子さんが俄然元気になり「良かったわよぉー!みなさん、ごめんなさいね!
ああ、お土産があるのよ、ほらぁ、とよちゃぁん、おみやげ、おみやげ!」
職場のみんなはこのちんすこうのいきさつを何も知らない。
「あらぁ、一人に1箱づつなんて、重たいのにわざわざ買ってきてくれはったん?どうもありがとう」と、当然のことながら言う。
すると夢子さん、「いいのよ、いいのよ。これはね、本当に美味しかったから、是非ともみなさんに一箱づつって思ったの。美味しいのよ!」
当然のことながら、私の身体は5番目の硬直状態に突入していた。
開いた口すら塞ぐのにも、かなりの時間が必要だった。

翌日職場へ復帰した。
勿論出来上がってきた写真という写真は見事なまでの花子夢子オン・パレードであった。
この旅行の後、私は当然のことながら、この二人とは関わりを持つことを極力避けていた。
ところが数日後、夢子さんが近寄ってきて、私の肩に手を乗せて、こう言った。
「とよちゃぁん、又行きたいわねぇー」
御想像の通り、第6番目の硬直状態に見舞われた。
それからしばらくして私はこの職場をあとにした。



メール

ライン